クリスマスイブだというのに、四木邸はいつもの土曜日の午後と何一つかわらない。
四木は書斎で新聞を広げて、テトは二階で遊んでいるだろう。
結局、テトの要望するクリスマスプレゼントはリサーチできなかった。しかし、あるおもちゃ屋はクリスマスイブのみ午前0時まで営業するそうなので、テトが寝た頃に何か見繕おう、そう考えていた。
新聞の天気予報によれば、今日は夕方からさっと雨が降るらしい。しかし雪には至らない。
ピアノの音がした。
四木は廊下に出ると、音の方角を見上げて階段をあがる。
音のするドアの前に、四木は棒立ちになった。
ノックの形でまげられた指は、いつまでもノックをしない。
***
ピアノの音がした。
四木は廊下に出ると、音の方角を見上げて階段をあがる。
ノックしてドアを開くと、テトのピアノがピタととまった。
「四木さん、ごめんなさい。勝手に」
テトは座っていた椅子からすばやく降りた。
「使ってかまいませんよ」
「ピアノ、持ってらしたんですね」
「こんなものを持っているのが不思議ですか。一人暮らしだったはずのいい年した男が」
テトは苦笑し、
「それに四木さんですし」
と加えた。
「失礼なひとだ」
四木は鍵盤に指を置く。
ポーンとやわらかい音。
「もとは売り物だったんですがね」
鍵盤に置いた指を横にすべらせる。端、側面にいたり、黒いピアノの脚までたどり着く。
「取引前に少々痛んでしまったものですから」
ピアノの脚には弾痕があった。
テトはあら、という顔をしたがコメントはしなかった。
なるほどこれではどんな珍しく、貴重な骨董品でも売り物にはできない。
「弾けますか」
テトは「少しだけ」と苦笑した。どうぞ、と促す。
古い古い、有名な映画音楽。
このひとはあの屋敷で老人に所望されてこれを弾いていたのだろう。
ひそかにイラときて右手を鍵盤に置いた。
別の曲を弾く。
映画音楽にすべりこむ、異なる旋律。
テトは目をまるくして演奏をとめた。
「四木さん、弾けるんですか」
「少し」
四木の家は、裕福な家庭であった。
加えて、どちらかといえば格調高い家柄であった。
いまとなっては何の関係も、愛着もない家であるが、不思議と指と耳は覚えていた。
指はよどみなく動く。
音が重なりはじめた。
いつのまにかテトの右手が鍵盤の右端に。
「・・・」
別の曲にすればよかった。絶対に弾けないようなものに、
とは口にはしないものの、四木は面白くない。
指は止めない。
「四木さん」
「・・・」
指は止めない。
「怒って?」
「怒っていません」
「うん」
「・・・弾けるんじゃないですか」
「うん」
「・・・」
「でも、一緒に弾いたのははじめて」
テトの瞳が鍵盤を見つめていてよかったと、四木は思った。
なのに指は顕著に一音間違えて、テトは鍵盤を見つめたまま少し笑った。
***
ピアノの音がした。
四木は廊下に出ると、音の方角を見上げて階段をあがる。
音のするドアの前に、四木は棒立ちになった。
ノックの形でまげられた指は、いつまでもノックをしない。
コンコンコン
「パパ、ごめんなさい、勝手に」
テトは座っていた椅子からすばやく降りた。
「使ってかまいませんよ」
同じ反応するから、わざと同じ言葉をつかい重ねて、柄にもなく心臓にじわりとあたたかい水がしみこんだように感じた。
「パパ、これはママのですか」
ハイでもイイエでもない言葉を短く返して、テトを椅子の上に戻した。
そして笑うでも怒るでもない。傍らに立つだけ。
テトはほうけた顔で、穴が空くほど四木を見た。
首をかしげて促してみせるとテトは鍵盤と向かい合い、震える人差し指を持ち上げ、ミの音を叩く。と、パッと引っ込めてしまった。火傷したみたいな動きだった。
それから四木を覗う。
「弾いていいんですよ」
テトはもじもじしてしまった。
「・・・テト、へたです」
「だれか上手な子がいるんですか」
「・・・すみれ組の先生」
「そうですか」
テトを横にずらして椅子にかけた。
テトの目と耳にさらされながら、一瞬間迷い、かつてと同じ曲を弾いた。
ショパン
前奏曲
15番
雨だれ
それは恋人を惚れ直させるのに向いていて、五歳の娘に聞かせるには向いていない曲調だ。
そのうえ、懐かしい音がするたび細く傷つく。
(俺は馬鹿か)
「パパ」
声に引き戻された。
「かっこいい・・・」
テトの頬は上気し、おおきな瞳をうるませて感激していた。
「すごい、パパすごい。パパ、ピアノの選手?」
リレーの選手のような選抜を指しているものと思われた。
妻のことを考えて感傷にひたっていただけに後ろめたさは否めないから、純然たる賛辞に四木は困った顔をした。
視線から逃れるように、人差し指ただ一本を鍵盤に乗せた。
たたき始めると、耳慣れたメロディーにテトはぱっと目を見張った。
「カエルのうた」
「そう。ここに置いて」
先ほどから四木が弾くのを見るばかりで、鍵盤に触れようとしなかったテトの指をドの場所に乗せた。
隣でゆっくり指を動かしてやる。
テトは見よう見まねで重い鍵盤を沈める作業に夢中になった。
カエルのうたが弾けるようになったところで、「朝早くと夜でなければ、好きに遊びなさい」と言い置いて、四木は部屋を出た。
書斎に戻っても、階上からまだカエルのうたが聞こえていた。
タッ、と雨粒が窓をたたく。
その音で、四木は自分が書斎でぼうっと立っていたことに気づいた。
動かねば
遮光のカーテンをひく。
すると、書斎のあかりをつけていなかったことに気づいた。
ゆっくり首をかしげる。
おかしいな
ピアノの音がする。
ドアをノックしたとき、ドアの向こうの景色に俺はなにを期待した
ピアノの音がする。
あかりはつけなかった。
やがて外では雨が降り始めて、天気予報のとおりだ。
雨の音ばかり近づいて、ピアノの音が遠ざかる。
かのひととの時間を思い出すたび胸に水がしみこむ。
そのたび
もしかしたら
どこかに
「・・・」
体中から糸がほどけおちる時間が訪れる。
***
暗い部屋に立っている。
カーテンに触れていたそのひじがカクンとおちた。
糸の切れた操り人形のうごき
力なく
それはうすく開いたドアからテトが見た景色
雨が降り始めたことを知らせようと、ピアノをやめて書斎の前にきた。
雨天にかげる廊下よりもなお暗い闇が書斎から細く漏れ出していることを、中をのぞくより一瞬早く察知したのはなぜだったのか。
中をのぞいた瞬間、テトは息を止めた。
そこでは息すら騒音だった。
ドアには触れずに、足音を決して立てずに、テトは二階へ戻った。
(テトのせい)
傲慢
加害妄想
自意識過剰
揶揄されるべきそれを、感傷を伴わずやってのけた。
一般的に見て哀れだ。
だがテトにしてみれば、ただひたすらに四木だけを哀れんでいた。
(テトがなにかをしたせいで、パパが悲しい)
”なにか”とはなにか、なにか、なにか。
はっと気づいた。
ピアノだ。
ピアノの部屋にすばやくすべり込む。
指を挟みながらも表情一つ変えずに重いピアノの蓋をしめた。
(テトがこれを弾いたから、パパはおこって、とてもくるしい)
両手を離す。
これには、もう二度と触れてはならない。
矜持を心臓にうがった。
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