●北風と暴風警報

帰り道でさんはついに歩けなくなった。
俺がおぶって帰り、布団に寝かせてしばらく様子を見ても回復しなかった。
外は夕暮れが終わり、夜だ。
風が強くなるという朝の天気予報を思い出して立て付けの悪い雨戸を閉めた。

さん、具合よくならないすか」

布団の傍らに正座して見守る。

「新羅んとこ行きますか」

さんはまつげの隙間からほそく天井を見上げたまま首を横に動かした。緩慢だ。
雨戸をコココと小石がたたく。
テレビではバラエティ。
笑い声がする。
画面上に白い文字でニュース速報が流れた。



【東京23区全域に暴風警報】
【深夜にかけて更に強まる見込み】



それから一時間せず、もう一度ニュース速報がはしる。



【JR、東京メトロ、都営地下鉄、私鉄各線 運転見合わせ】



横殴りの風にボロアパートがみしりと揺れる。
これ以上強くなる前に新羅んトコに行こう。そう声をかけようとしたらさんはか弱い声でこんなことを言った。

「外へ行きたいです。・・・風にあたればよくなりますから」







●北風とタイムリミット

あつい
あなたが買ってくれたフリースが
あなたがかけてくれたお布団が
あつい
でも脱ぎたくありません。

横殴りの風にアパートがみしりと揺れました。
私の終わりを告げる最後の大風です。
時間切れ。
間に合わなかった。
私はまた負けてしまった。

だのに、くやしい思いが小さいのはどうしてかしら
心が軽い
体は重い
ああ
わかった。
春だからです
あなたの望んだ春だからです
最後の私があなたの好きな春を呼ぶから
タイムリミットも
私のおわりも
さほど寂しくは
ないのです

「外へ行きたいです。・・・風にあたればよくなりますから」
「風にあたるって、外めちゃ風強いんで無茶ですよ」
「へいき」
「飛ばされますよ」
「そんなこと・・・」

言っている途中で鼻の奥がつんと痛んだ。
目をきつくつむり、離散しようとする意識をつなぎとめる。
まだ行くな
もうすこし

静雄さんは、これを不調と見咎めたのでしょう。

「新羅んとこ、行きますから」

と低い声で言った。
そして私の返事も聞かず箪笥を開けました。
中身をひっくり返し、床に撒き散らしながらとんと使っていなかったであろうマフラーを探しあてる。
においをかいで二、三度手ではたいて。
それから私の体の下に手を入れて起こし、フリースから出た首に毛糸のマフラーをぐるぐる巻きにしてくれました。
おぶり、立ち上がる。

「外へ?」
「新羅呼ぶより早いんで」
「飛ばされる」

冗談など言ってみました。
返った声はどこか怒ってるようで怖かった。

「飛ばさせねえ」

玄関で靴をつっかけながら静雄さんは言う。

「俺、足絶対ェ放さないんで」

こちらへ顔を振り向けようとしないのは、靴を見ているから?

「だから手ちゃんとつかんどいてくださいね」
「・・・」
「足だけつかまってて上半身ひっくり返ったら組体操の荒技みたいでハズいっつー意味合いで言ってます」
「そうですか」
「そうす」

ぴとり
決して振り返らない首筋に頬をあててみる。
びく、と一度だけかたい肩が跳ねました。
なんてはやく脈打つ首筋だろう
あつくってとけてしまいそう







●北風と花見

平和島静雄は新羅のマンションへの近道として大きな公園を突っ切った。
公園の桜は二部咲き。並木道で見た桜とは種類が違うのかもしれない。

この風だというのに公園にはブルーシートが敷いてあった。
気の早い花見の会社員はまだ粘っていて、雷でテンション上がるタイプの集合体のような有様だった。かかってこいや暴風!みたいな。
空き缶が風に吹っ飛ばされて地面を転がっていく。たまに宙をはねたりして危ない。ネクタイを頭にまいた彼らはその危なさに気づいていない。気づくべきだ。静雄に当たったら彼らの命が一番危ないのだから。

しかし缶は静雄を避けて通った。
比喩でなく、背に負う北風が静雄が傷つかないように、静雄が誰も傷つけなくていいように、こっそりと加護を与えていた。
音をたてる風のなか平和島静雄のまわりだけが無風であった。

「静雄さん、下ろしてください」
「だめです」
「歩けます」
「・・・」
「どうか」
「・・・ちょっとでも悪くなったら言ってくださいね」

は公園の土を踏んだ。



***



さんを下ろした途端に風が顔にぶつかった。
冷たい風と温かい風がまざって、温度は生ぬるく、勢いは二倍だ。
俺はさんより重みがあるから大丈夫だけど、さんは風にあそばれている。
風に押し出されるように、さんは歩き出した。
素足だ。

「あ」

街灯のないほうへ

「足、靴」

とがったものを踏んだら怪我する。

「危ないですよ」

追いかけようとしたらぬるい風が真正面からぶつかってきた。

「新羅んチそっちじゃないし」

強い風が咲きはじめの桜の花弁を容赦なく吹き飛ばす。

さん」

背中が夜へ入ってく

さんってば」

暗闇に輪郭が溶けて

「待って」

左手首を捕まえた。
振り向かせ、右手首も捕まえる。

「・・・どこ行くんすか」
「行かないと」
「だからどこに」

さんは力なく笑っただけで答えなかった。
ので
くやしかった。
ので
どこにも行かないように抱きしめた。
腕の中でもぞ、と動いたのでもぞ、ともできないくらいに強く抱きしめた。



「私が行けば、春が来ます」

「じゃあ春来なくていいし!」

声がかすれた。

「行かないでください」

さいごは息のようになってしまった。






「アベックだ!」



***



酔っ払いから年代を感じる野次が飛んだ。

「やい、お二人さん!アツいね!」
「抱きしめあっちゃってェ!」

あっけなく平和島静雄の堪忍袋の緒が切れた。

「んだとォ、この」

「さてはこれからスケベをすブファ!」

酔っ払いの語尾が鈍った。
静雄が殴ったからではない。
突風に舞い上がったブルーシートが彼らをくるんだのだ。






背伸びしていたの足が大地に戻ったあと、ブルーシートも大地にもどった。
酔っ払いが再び平和島静雄を見つけたときに彼の顔が真っ赤になっていた理由はとんと知れない。

「・・・あ、・・・と・・・えと」

静雄は言葉にできず、ロボットのようにカクカク動いた。
もはや酔っ払いの野次など耳に入ってこない。

「や・・・その・・・ハハ・・・」

自分の金髪に無駄に手ぐしを入れたりして、すっかり挙動不審である

「新羅、んトコ、に」
「治りました」
「でもさっきまでは」

キス、までは。
静雄は思い出して言葉を次げなくなった。
鼻から口を覆うように片手を自分の顔に押しつける。

てことは、あの、ほら、なんだ。そっか、風にあたればよくなるって最初から言ってたもんな。
うん、まあ、そうか、じゃあ新羅んトコはいらないな、そう、うん。
で、その、この雰囲気でこのあといったい



「じゃ、どこ、行きましょっか・・・?」

「帰りましょう」

イッ

「静雄さんの家へ」


























イェエエエエエエエエエッ!





































その夜、池袋では最大瞬間風速42mの風が吹き荒れた。
あつい
とけて
きえそう

風のせいで静雄のおんぼろアパートは大いに揺れ、軋み、声はかききえて、しあわせだった。






<<    >>