【本館宴会場「鶴の間」】 緑川の実践的技術力



後藤が白い灰になった頃、椿は「いまがチャンスだぞ。行け、行け」と緑川に背をおされ、しかし持ち前の脚力で前に押し出されないよう踏ん張っていた。

「無理ッス無理ッス無理ッス無理ッス無理ッス無理ッス無理ッス!」
「おまえのなかのジャイアントキリングを起こすんだろ?」
「ジャイアンが持田さんなんで基本無理ッス!」
「仕方のない奴だな。じゃあ俺が呼ぼうか?」
「へ?」
「この前の骨折でリハビリのとき世話になったんだよ」

緑川はニコっとした。
コミュニケーション能力が高く、誰からも好印象を持たれる緑川ならではのコネクションだ。

「す、すごい!すごいッすドリさん!」

そこに痺れる憧れr

「いい子だよなちゃん。メールアドレスも知ってるぞ」

緑川はにっと笑顔を作った。
椿は「・・・やっぱいいっす」と小声て表情を固くした。
緑川は誰からも好かれ、もちろんたいそうモテるのに未だに結婚していない理由を椿はそこはかとなく察したのである。



「持田の妹さんiPhoneなんだ。俺も俺もー」



椿が緑川という思わぬ伏兵に戦々恐々とした頃、隙を突いての背後を取ったのはベテラン石神であった。

「二度目ましてー」
「石神選手、こんばんは」
「この前は注射ありがとうございました。ああ、そうだ。アケマシテオメデトウゴザイマス」
「あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。さきほどみなさんインフルエンザにかからなかったとうかがって、よかったです」

「ほら椿、どーすんだよ。持田妹が石神にからめとられちまったぞ」

緑川と椿の間に丹波と一升瓶が割って入った。

「丹さん、き、聞いてたっすか」
「おまえわかりやすすぎ。それよか、はやく止めいかねえと、酔った石神の絡み方はスレスレだから」

と言いながら丹波はくいと猪口を煽った。
もう片方の手に持っていた一升瓶から緑川の猪口へ丁寧に注ぐ。

「ス、スレスレってなんですか?」
「見てりゃわかる」












【本館宴会場「鶴の間」】 石神のスレスレ力



「iPhone、アプリ入れてる?」
「いえ、あまり。使いこなせてないです」
「そうなんだ。じゃあなめこ入れてる?」
「なめこ?」
「なめこを育てて採取するだけのゲーム。地味にハマるからオススメ。タダだし」

遠巻きに見ている限り、iPhoneユーザ同士おすすめアプリを紹介している姿にしか見えない。
ここにどのような毒があるのだろうか。
椿がしばらく見守っていると、のiPhoneになめこアプリのインストールが完了したらしい。
デフォルメされたなめこのなんとも気の抜けた表情を見ては「かわいい」と思いのほかその造形を気に入った、らしい。

(俺も同じアプリを入れたら同じ話題で盛り上がれるだろうか)と椿が外堀をちんたら埋める策をのろのろと頭に巡らせ始めた頃、石神はアプリの使い方説明をし始めた。

「なめこがね、この木にいっぱい生えてくるから生えてきたのを指でこうやってなぞるの」
「あ、生えてきました」
「そうそう、それをね、指でやさしく」
「こうですか」
「もう少し優しく、爪をたてないように、この、くびれているあたりを」
「こうです?あ、とれました。かわいい」

なめこがまた生えてこないかとわくわく見守っているを上から見下ろす石神は、場違いなほどにやにやしている。

「でしょー。いいよねー。くびれているところをこするか、先っぽ強めに押すとうまくできるから。じゃあ、ひとりでもう一回やってみよっか?」
さん逃げて!」



ゴスン



「おいこらセクハラ野郎」

くびれをこすれだの先っぽだのと若い女性に説明して喜んでいた石神の脳天に、堺のかかと落としが決まった。
石神は座敷を這って「堀田ァ、堺さんがぶったぁ」と堀田のところへ逃げていったが当の堀田は有里に酔いつぶされ、ご神体となって上座に転がっている。
堺は石神の再接近を阻むコースでどっかと腰を下ろした。
椿は立ち上がりかけた膝をもどす。

「堺さんなら、安心ッス」
「いや、あそこは行くべきだったと思うぜ」
「そうそう、堺名人は一晩でお別れ系女子は釣れないが、長いお付き合いしたい系女子を一本釣りする釣り名人」
「え、えええ!?堺さんてそうなんすか!?意外っす・・・」
「近づいてみりゃわかる。そば言って聞き耳たてて来い」












【本館宴会場「鶴の間」】 堺良則の釣り技術



「あんたよお」

横にどっかと座った堺が怒っているふうに切り出した。
まだ自己紹介もしていない。
は緊張した面持ちで背をすっと伸ばした。

「はい」
「ちゃんと飯くってんのか」

堺はの前の膳に目を落としていた。
話しかけられるばかりで食事に手をつけることができなかったはぱっと箸をとった。

「ちげえよ、普段からってことだ。自炊してんのか」
「え・・・?時間があるときには。最近はお弁当がコンビニになっていますが」
「ったく医者の不養生ってやつか」

すみません・・・とはわけのわからないまま謝り、カラになっていた堺のグラスへ日本酒を注いだ。
堺はにあきれたふうなため息を聞かせ、はいっそう肩を小さくして自分の膳と向かい合う。



「塩こうじ、一回つくっとくと楽だぞ」



ぽつり、堺が言った。

「しおこうじ、というと、あの塩麹ですか」
「ほかにどの塩麹があるんだよ」

塩麹といえばいま主婦界から最も注目されている食材といって相違ない。も興味はあったものの漢字が複雑なせいか調理の難易度が高いように思われ、調べるには至っていなかった。

「スーパーで売ってるやつですか」
「まあ売ってるけど、自分で作ったほうが楽だ」

瓶詰めを買って料理にいれるイメージはできても、作るイメージはなかった。
難しくはないのかと尋ねると堺は一言、

「簡単」

と切り捨てた。

「どうやって作るんですか」
「スーパーで普通に麹売ってっから、それと天然塩、あと水用意して、炊飯器にいれんだ」
「え、炊飯器でできるんですか」
「そう、炊飯器。あ゛ー、いまレシピ書いてやるから、ちょっと待ってろ」

堺は膳に敷いてあった懐紙をとり、配膳の仲居さんが残していったボールペンを拝借して「まあレシピつうほどでもねえが」と塩麹の分量・レシピをしたためる。達筆であった。

まず麹を手でくだくだろ、それから、うんたらかんたら
え、もうおしまいですか。
そうだよ。これで塩入れてかき混ぜたらもう出来上がりだ。
すごい、思っていたよりもずっと早いです。これで出来ちゃうんですね。明日の夜蓮に作ってあげよう。
やってみな。体にもいいし。
堺選手、あの、ほかにもおすすめがあれば教えていただけませんか。高タンパク低カロリーの身体にいいメニューで






聞き耳を立てていた椿がとぼとぼと緑川や丹波の見守る巣へ帰ってきた。

「な。入れねえだろ」

丹波は慰めるように優しく椿の肩を叩いた。

「あれが堺の名人芸、主婦トークだ」

合コン中あの技で絡め取られた料理上手な女子は、二度とほかの男の手に渡ることはないという。







空腹は満たされ、主婦トークもおなかいっぱいになった。

「ごちそうさまでした」と堺に向かって指をついたは膝を起こし、ひとりで宴会場を出て行った。
「ほっらー!椿行かないからさあ」

丹波がガッデム!とばかり頭を抱えた。丹波と丹波の弟子世良がいだいた”酔わせてナース陣営に突入”という野望は堺という鉄壁ディフェンダーに阻まれ、ついえたのである。
椿がガックリとうなだれた。
と同時に、もう一人別の席でガックリと首をうなだれた男があったのを緑川のひろい視野は見逃さなかった。
黒田であった。
彼は未婚、現在彼女なしである。



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