「インフルエンザの予防接種受けてない人は並んでくださーい」
イースト・トーキョー・ユナイテッドの医務室前にぐずぐずと行列が作られた。
王者東京ヴィクトリーとのプレシーズンマッチを引き分けで終え、リーグジャパン開幕を間近に控えるこの3月、世の中では未だにインフルエンザの流行が尾を引いていた。
ドーピング検査で嫌疑をかけられぬよう予防注射の類は厭われていたサッカー界であったが、一昨々年に1部リーグ6チーム計54名の選手がインフルエンザに感染する事件があって以来、その規則が見直された。
かくして本日、選手・コーチ・ジュニアコーチ・広報・ジェネラルマネージャ・会長にいたるまで、ETU春の一斉インフルエンザ注射に参加する運びと相成った。
「みなさん並びましたねー」
いや、一人いない。
「・・・あれ?達海さんは?」
ジェネラレルマネージャーの後藤が目を合わせないようにしているのを目ざとく見つけるや、広報兼探偵と名高い永田有里の眉がピンと跳ねた。
「あの35歳児・・・注射ごときで逃げたわね」
なんとしてでも見つけ出してやると息巻いた有里が監督捜索のために廊下を離れたころ、注射行列トップバッターの清川は重苦しい息を落としていた。
「うー・・・注射ヤだなあ」
医務室のドアはすでに開け放たれ、あの白い衝立の向こうで準備が終わればすぐに声がかかるだろう。
「なんだなんだキヨ、お注射コワいのか?」
若者の不遇を聞きつけたベテラン丹波が後方からニヤニヤ顔をのぞかせる。
「だっておれ結構先端恐怖症気味なんですよマジで」
「センタン恐怖症て乳首とかも怖いの?」
「ガミさん、んなわけないじゃないスか・・・。世良は平気?」
「俺血とられるほうはクラーッてするけど入れられるほうはわりと平気ッス。椿弱そうだよな」
「あ、えと、献血とかならたまに行ってるッス」
「ふうん」
青い清川、平気な世良、照れくさそうな椿、普通に見えるが実はいま汗がすごい赤崎。この4人を先頭に、これより後方はスタッフや選手が入り乱れている。基本は男ばかりの場所だから、狭・・・広くはないクラブハウスの広くない廊下へ一堂に会すとむさくるしいったらない。一服の清涼剤である広報は達海監督捜索のため不在である。
「しっ!」
突然、丹波が短く発した。
前後の堺と掘田が何事かと丹波を見やる。
丹波は唇の前に人差し指をたてた。
訓練された兵士のようにさっと姿勢を低くした丹波は、医務室の衝立の向こうに目を凝らす。
その場にいた全員が何事かと振り向いた。
「・・・あの足、ドクターじゃない」
「なんですって」
石神もまたしなやかな忍者のようにすばやく屈みこみ、衝立の下の隙間でうごめく足へ括目した。
「見えるか、ガミよ」
「あれは、もしや」
「・・・そう、女だ。しかも若い」
丹波の声に廊下に衝撃がはしった。
後藤は「そういえば」と思い出し、なごやかに言う。
「今日はいつものおじいちゃん先生が来れなくなったらしくて、研修医の人が派遣されてきたらしいよ」
「「「後藤さんそれ早く言って!!!」」」
何人かの声が猛々しく重なった。
「女」
「女だ」
「若い」
「にょたい」
「研修医」
「白衣」
「淫乱ナース」
「ナースじゃねえよ」
「女医」
「肌と肌の」
「触れ合い」
「アルコールで拭き拭き」
「お注射」
「ちょっとだけチクっとしちゃうぞ?」
「「「「「「・・・・・・・・・」」」」」
「よっしゃあ!」
先頭の清川は鼻息荒くみなぎりかえり、後方は既婚者・未婚者・年齢にかかわらずチラチラと窓に髪をうつして前髪に手ぐしをいれ始めた。
「準備が出来ましたので最初の方、どうぞ」
「ウェイ!」
清川が野太く答えて衝立へと勇壮な歩を進めた。
二番手の世良は居ても立ってもいられず拳を握り締めて震わせた。
「なあなあなあなあ今の声聞いたか?声結構かわいくねっ?見えないのが更に興奮するっつうかぁ」
小声でまくし立てじたばたと足踏みする。椿もご多聞にもれずどこか期待と不安の入り混じった様子で衝立の向こうを見つめた。
「研修医って、ヘタクソだったらそれはそれでつらいだろ」
「いやいや堺さん、かわいかったらヘタクソでも許せますって」
わいわいガヤガヤ、廊下のそこかしこから楽しげな声があが
「ぎゃあああああああ!!!」
絹を裂く悲鳴は医務室からだった。
廊下はしんと静まる。
「な、なんだ今の声」
「キヨ・・・だよな?」
「夏木、見て来い」
「え、な、なんでスッか」
「おまえいまヘタクソでも許せるつっただろ」
「そ、そんなぁあああ堺さぁああん!」
期待が一瞬にして恐怖に塗り替えられ男たちは震撼した。
とりわけ、
次の生贄である世良と椿は生まれたての子犬と子鹿のように身を寄せ合って体を震わせた。
やがて衝立の向こうから出てきた清川は負傷した腕(ガーゼシール)を押さえ、助けを求めるようにチームメイトへ向かって唇をわななかせるが声にならない。何度目か声を出すのに失敗すると言葉を諦め、数回首を横に振ったかと思うと、憔悴しきった様子でロッカールームの方角へと消えていった。
「次の方、どうぞ」
「・・・い、いやだあぁ!」
世良は赤崎に飛びつこうとするが、手をつっぱった赤碕にデコをおさえられ、池乃めだか師匠の伝統芸を繰り広げるに留まる。
「赤崎!赤崎おまえ先いってくれよぉっ、俺まだじにだぐだいぃぃ死ぬ前に五輪日本代表にぃぃぃぃ、お前が死んだら俺が五輪日本代表になるからおねがいぃぃ!」
「いやッス」
「次のかた」
「ううう、俺が死んだら絶対五輪のとき相手のフリーキックおまえのチンコに当たる呪いをかけるからなあぁああ」
呪い、そして泣きながら世良は衝立の向こうに消えていった。
廊下は人っ子一人いないように静まりかえり、誰もが固唾を呑ん
「うぅぅぉあおあおあおああああおあおあおあ!!!」
もうとてもではないが予防接種が行われているとは信じられない。
医務室から出てきた世良は猛ダッシュで廊下の向こうへ消えていった。
「はげしい運動はしないでください」
白い衝立の向こうから世良に冷静な注意がとぶ。
さて
未だなにが起こっているかわからないなか、
「次の方、どうぞ」
椿に死刑宣告が下された。
赤崎は妙に優しく椿の肩を叩き、動けない彼を軽く前へと押し出した。後ろからやわらかく手を振る彼らは、もはや注射を受ける気はないのだろう。椿は押し出された勢いでよろよろと衝立に近づき、
最後に「さよなら、サッカー」と呟いて魔の巣窟へ足を踏み入れた。
衝立の向こうは大きな窓からさしこむ陽光でとても明るかった。
天国のイメージによく似ている。
天国の中心の椅子に腰掛ける女性、そのタイトスカートからはすらりとした足がのぞいている。華奢で女性らしい体つきにもったいぶるような白衣をまとい、
「こんにちは」
椿はストンと落ちるように椅子に座った。
「そちらの台へ腕をだしてください」
持田だった。
「アルコールでかぶれたことはありますか」
プレシーズンマッチの恐怖が蘇る。
「アルコールでかぶれたことは」
「・・・」
「あの・・・」
「ひっ、ひぃっぃぃぃぃいいいいいいい!!!すみませっスミマセンッ!」
腕を顔の前にやってガードする椿を見、”どう見ても持田さん”は持っていた脱脂綿を一旦おいて細い肩を落とした。そして「驚かせてしまってごめんなさい」と小さく頭をさげた。
「持田紅葉といいます。蓮がいつもお世話に、と申しますかなんと申しますか、ご迷惑を、でもないですね。・・・プレッシャーなどを、おかけしています」
「ふたご」
口の端からこぼれおちた椿の言葉に紅葉はこくりとうなずいて苦笑した。
その苦笑は彼の知る”持田さん”とはあまりにかけ離れていて、椿は急激に落ち着きを取り戻し、状況の理解が進んでゆく。
「アルコール、大丈夫ですか」
「あ、はい、ウス」
紅葉は椿に配慮してゆっくりとやわらかに尋ねた。
つめたい手が椿の左腕にさわり、更に冷たい脱脂綿でさっと消毒が済んだ。
「ライバルチームとか研修医とか、ご不安かと思いますが仕事は手抜きしたりしないので安心なさってください」
「・・・ウス」
「少し、チクっとしますね」
チクっとした。
上から見下ろす椿の視界で、色素の薄い瞳がじっと自分の腕を見つめている。
なすがままにされる腕のその先、指がひくりと動いた。
はい、おしまいです。と言ったときの困ったような笑顔は椿の目をまっすぐ通り抜け頭のなかの宇宙へ広がった。
今日は別の者が伺う予定だったのですけれど急遽別の手術が入ってしまいまして、と言われたあたりは椿の右から入って左へ抜けていった。
驚かれないよう分け目をすこし変えてみたんですがうまくいきませんでした、とはにかんだ顔が対比物が怖すぎるせいか、とんでもなくかわいいものに映った。
よろしければほかの方にもあらかじめ伝えていただけませんか、という言葉は通り過ぎ、これで5分くらいはぎゅっとおさえてください。重いものを持ったりなさらないでくださいね、という注意事項すら耳をかすめず
「揉んじゃだめですよ?」
という言葉だけがひどくいやらしい想像を伴って椿の中に深く刻まれた。
尻子玉を抜かれたようにポーっとして医務室から出てきた椿によって注意事項が伝えられることは永劫なく、その後も医務室前の廊下に悲鳴の連鎖はしばらく続いたという。
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