***数年前***


いるはずのない日に持田蓮がマンションにいた。
が卒論を誰より深く早く厚く書き終えた三日後のことだ。
フードをかぶり、音のないリビングでソファーにうつぶせだった。
息が止まる。
「蓮、しあい」と言いかけた声はぎりぎりのところで「蓮、ぐあい」と一音変えて出ていった。
しばらくをおいて応じた声はソファーにぶつかってくぐもった。

「ただの炎症」

四度目の

はキッチンへ走った
冬のあいだ使わず凍りついてしまった製氷機の受け皿にプラスチックのスコップを叩きつけた。
ガッ!
ガッ!
冷蔵庫の引き出しが揺れる。
氷は割れない。
ガッ!
指をぶつけた。
ガッ!!!
スコップのほうにひびが走った。



「いいよ」



声は背をうつ。

「もうアイシングしてもらったから」

いいよ、よりも声音はわずかに優しかった。
冷蔵庫に対面し
割れたスコップを握る手が弛緩する。
かわりに顔がくずれぬよう奥歯で強く支えた。
流す資格のない涙がこぼれないようまなじりが裂けるほど目を見開いた。

ピピー

開きっぱなし防止ブザーが鳴った。

ピピー














ピピー




























わたしたちはひとつ
ならば
いまわたしが感じる痛みは片割れとわけた痛みだろうか
いいえ
ひとつがふたつに裂けた痛み
いいえ
いいえ

わたしが立ち入れない痛み
























***数年前***



「ん」

運転席からこちらへ差し出された手からよれた紐が垂れていた。
大学の卒業式まで送ってくれた朝、「ただの炎症」がまだ持田蓮を練習から遠ざけていた日のこと。

なんだろうか。
すでに車を降りてしまっていたは袂をおさえて同じ形の爪の下に手を伸ばした。
は卒業式に出るつもりはなかった。だから当然着物を着ることも頭にはなかった。
祖父母の命には間に合わなかったけれど双子の脚には間に合わなくてはならない。の掴み取りたいものは学びよりずっと先にあるのだから。
けれど、とうの片割れが「着物を着ろ」「卒業式に出ろ」と言い出した。
そのときの表情が「おまえは大学に行くんだよ」と言ったときと同じだったから、は今日を迎えた。

どこが不機嫌そうに手のひらに落とされたそれは、緑と白の紐の絡み合う、いびつな
は目を見張った。

「やる」
「これ・・・どうしたの」
「吉祥寺のユザワヤで紐買って作った」
「作り方どうして知ってるの」
「ネットで調べた」
「・・・」
「揃ってないと落ち着かない」
「・・・ねがい、は」
「あ、作り方見ながらだったから考えてなかった」
「・・・」
「おまえが世界一の名医になるように」

ふてくされたような声は卒業おめでとうと言ったのだとは知っていた。















***いま***



ドアの閉まる音で目が覚めた。

タタンタタン
タタンタタン

車内放送が聞きなれない次の駅名をアナウンスしたところでようやく、自分が下りる駅はとっくに過ぎてしまっていることに気づいた。
通り過ぎるどころか、一旦終点までいって折り返している。
どうりで電車がガラガラなわけだ。同じ車両にはのほかにもう一人スーツ姿の男性があしたのジョーのワンシーンのようにぐったりと寝ているばかり。ケータイの時計を見ると0時45分を過ぎている。明日も早い。
仕事のあと、大学の研究室に寄ったが今日もまた革新的な結果は得られなかった。
ため息を落としかけて、ふとストラップとしてケータイにつけた下手なミサンガが視界にはいった。
手のひらですくう。
やわらかく握る。
ため息は消えた。
体はひどく疲れているがなんということはない。
顔をあげたとき、電車の窓越しに夜桜に縁取られた大きな通りが見えた。
イヤホンからはDREAMS COME TRUEの「何度でも」が聞こえはじめた。

春と歌といとしい記憶がを励ましていた。



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