当直の時間が終わった。
明るい午前の陽光が充血した目にしみる。
それでも、いわゆる研修医の労働環境の劣悪さが世間で取りざたされてからというもの新しい制度・規則が整備され、ここ隅田川総合病院では就業環境が劇的に改善されたらしい。めぐまれた環境である。
長時間勤務が一定期間続くとべらんめえ調の院長から本人と担当責任者に対して怖い怖い呼び出しがあるうえ、紅葉は去年すでに三度の呼び出しを受けている。もう呼び出しをうけるわけにはいかない。
ロッカールームへ向けて院内を足早に進んだ。
その頭の中は故障の多い双子の脚のことでいっぱいだった。
ヒラリ
先の廊下に紙がひらめいて落ちた。
前を歩く黒いジャージ姿の男性が落としたらしい。
拾い上げて追いつき、トントンと腕をたたく。健康診断の受診票であった。
落としましたよ、という言葉は出なかった。
「ども」
振り返った男性を紅葉は知っていた。
東京ヴィクトリーの宿敵イースト・トーキョー・ユナイテッドの新監督、達海猛そのひとだ。
先日のプレシーズンマッチでは達海監督率いる弱小ETU
と蓮の所属する名門・東京ヴィクトリーがあたり、結果は引き分けに終わった。
紅葉は「達海猛」についてメディアが報じるより詳細な情報を知っていた。
達海が英国に渡ってからの記録を除き、彼の怪我に関する情報は全てこの病院に保管されているのだ。
故障の時期、部位、状態、経過、施術記録、あらゆる情報を研究の過程で読んでいた。
カルテには叙情的な記述など一つもないのに、双子の姿を重ねて身体中が強張ったのを覚えている。
ざわっと震えがよみがえった。
「ん?おまえ」
動けない紅葉に達海は眉をひそめた。
「女装趣味だったの?」
「え」という言葉は喉が緊張していて出なかった。
「別にいいけどさあ・・・つかすげえ似合うのな。一瞬女かと思った」
「ぁ、ぃえ、達海監t」
む に
達海の手が紅葉の胸を鷲掴んだ。
もみ
もみ
もみ
感触に達海は首をかしげる。
紅葉の顔が温度計のように下から赤くなる。
不思議そうにもみもみし続ける達海の手首を掴んで、ぐぐっと放させた。
羞恥と緊張と混乱で物言えぬ紅葉を見、
「おまえ、まさか」
達海ははっと気づいた。
「チンチンとっちゃったの?」
静かな待合室によく響いた。
紅葉は震える両腕を胸のまえでクロスして蚊の鳴くような声で言う。
「さ、さいしょからついてませ・・・」
「マジでか」
***
ETUのクラブハウスと隅田川総合病院は同じ通りに面している。
「散歩してた」とかで春の一斉健康診断(とインフルエンザ注射)を受診しなかった達海は、広報の永田有里に首をガックンガックン揺すぶられて怒られ「自分で病院へ行け、今すぐ行け」と命ぜられ、足を運んだ。
現役の頃はここに何度か世話になったものだけれど、病院の建物はすっかり新しくなっていて当時を思い出せるような景色はひとつもなかった。あまりいい思い出はないからむしろよかったかもしれない。
「ああ持田くん。はいはい、もちろん知ってますよ。はい前出してください。持田くんがどうかしましたか?」
「さっきそこで」
おっぱい揉んで、とは言えない。
「会って」
「そうですかそうですか。ちょっと変わってますけど綺麗な子でしょう」
変わっているのかどうかは知らないが、持田と同じ顔をしている印象が強すぎて綺麗だったかどうか達海のあたまのなかでは判定に至らなかった。
天井を見上げて思い出してみる。
「・・・」
完全に持田。
(おっぱい以外)
「若いのにやたら肝がすわってましてね、動じないというか、忍耐強いというか。はい、大きく息してみてください」
恰幅がよくやたら明るいおじいちゃん先生は聴診器を達海の浮き出た肋骨にあてながらしゃべり続けた。そんなにしゃべっていてその聴診器は聞こえているのだろうか。
達海は言われたとおり大きく息をする。
(動じない、ねえ)
ついさっき小ぶりな胸をもまれてうろたえまくっていた人をもう一度思い浮かべる。
(・・・完全に持田)
「それと研究熱心な子でしてね。はい、息を大きく吸ってぇー」
すぅううう
「吐いてぇー・・・。吸ってぇー・・・吐いてー。簡単に言うと足の骨や筋肉の新しい治療法ってやつですか、神経系もだったかな。ちょっと我々も驚くくらいの迫力でやってますよ」
よくしゃべるおじいちゃん先生は一瞬ヘンな心音を聞いた気がしてもう一度達海に吸って吐いてをさせた。
気のせいかしらという表情で首をかしげ、念のため採り終わっている心電図を開いて確認し始めた。
その間も口のすべりはなめらかだ。
「仕事がおわると大学へ戻って研究室にこもってるみたいでしてね、ちょうどいまも行ってるんじゃないかしら。こっちの集中力がきれるからほどほどにと言ってるんですが、まあサッカー選手のお兄さんがいるんですよ。ご存知ですかね、サッカー日本代表の。うちの通り沿いにも一個小さい練習場みたいのありますけどあそこじゃなくて。そのお兄さんってのが足がどうも慢性的にアレしてるみたいで。まあ、治そうとしてるんですかね。現役アスリートの足にはちょっと間に合わないでしょうけど、まあ、若いから」
所見なし
健康診断表に書き込まれた。
「はい、痩せすぎですけどまあ、大丈夫でしょ。ほかにどこか気になるところはありますか」
「・・・イーエ」
「はいはい。それじゃこれで健康診断は終わりですからこの紙を一階のカウンターに出してください。お疲れ様でした」
***
研究室へ寄ったが始終散漫だった。
朝に見た達海猛の後姿がチラつく。
歩き方は普通だった。
しかし選手の足ではなかった。
心臓が強く打ちはじめる。
呼び起こされる遠くない記憶を振り払うように立ち上がった。
マンションの玄関では午前の練習を終えてすでに戻っていた同じ顔が出迎えた。
紅葉は笑う。
「ただいま」
「おかえりー」
どちらからともなく、今度休みが重なる日に花見へ行こうと話した。
桜の名所は混んでいるから梅でもいいと紅葉の双子は言った。
東京の梅は見ごろが終わってしまったことを教えると眠たげになって口をつぐんだ。
かつて住んだ家の庭には祖父が大切にしていた梅の木があった。
祖父はその梅の木を「蓮わかるか、あいつは渋い。素晴らしく渋い。おまえのいうところの”ヤバい”」と何度も刷り込んだものだから、風流を気にも留めないはずの片割れは「梅でもいい」と言ったのだと紅葉は知っていた。
彼らの頭から花見が消えさる一瞬はそれから5日後におとずれる。
4月7日 土曜日 リーグジャパン第5節
ピッチに担架が運び込まれた。。
ほどなく選手交代の電光掲示板がかざされる。
エース持田は怪我により途中交代した。
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