「次、インフルエンザ注射の方です」
「はい、ありがとうございます」

前の患者のカルテを看護師にひきわたし、次の患者が診察室へ入ってくるまでの束の間にはグンと伸びをした。
今夜は帰らなくてはならない。
今日の夜、七日間の夏キャンプを終えて東京に戻ってくる。
脚は痛まなかったろうか。みんなと同じメニューを望むだけ誰より夢中で取り組んだろうか。思うだけで尋ねたことは一度もない。
東京ヴィクトリーと契約している病院の患者の情報は部外者は知りえない。部屋でマッサージをすることはあるけれど、この手のひらは傷だらけの硬い皮膚の奥のありさまを精密に想像するにはあまりに不出来だ。この脚は懸命であたたかいとわかるばかり。

「達海さーん、達海猛さーん。3番の診察室にお入りください」

ビックリして思わず立ち上がる。



「はぁ・・・おじゃまします」

暗い表情で診察室に入ってきた達海はの顔を見るなり、「お」と目を開いた。
の挨拶はひきつる。

「・・・こんにちは」
「どーも」

「どうぞおかけください」と言ったもまた立ちっぱなしだったので、不自然に腰を椅子に戻した。
達海はしぶしぶしぶしぶしぶといった様子でまわる丸椅子に腰掛けた。
は達海の目を見ることができなかった。ここしばらくの心のなかの波は達海の姿と一緒にやってくるのだから。
落ち着かなくてはならなかった。こんなに動揺して医療ミスを引き起こしたらどうするのか。

「注射、ETUのみなさんとご一緒にはうけなかったんですね」

アイスブレイクトークをはさむことにした。

「まあね。つかなんで知ってんの」
「ETUのクラブハウスに伺って予防接種をしたので」
「そうだったんだ」
「はい」
「あー、なんかあとからそんなこと言われたような気もする。持田妹がどうとか」
「そうですか。腕をこちらにおいてください」
「・・・」
「腕を・・・」

達海は腕を差し出さない。
が顔をあげて顔色をうかがうと、達海は左横の壁をじっと見て「タモリめ」と忌々しげに呟いた。

「タモさんがいいともで夏もインフルエンザにかかるって話したから有里が思い出したんだ」
「はあ」

よくわからなかったがいつまでも腕を出さないので、は勝手に達海の手をとった。

「・・・エッチ」

無視してアルコールで拭いた。
雑談のおかげでもうだいぶ落ち着いていた。

「痛くしないでね」
「痛くないですよ」
「絶対痛いじゃん」

細く鋭い針の先からピュウと水滴がこぼれる。

「少しチクっとしますね」
「俺さあ、お医者さんのいう”少し”ってほんと信用ならねえと、んーっ」

ぐたぐた言って回避を試みた達海は針から目をそらして最初のチクを迎えた。

「おしまいです。お疲れ様でした」
「あー痛かった。そうでもないけど」
「これを貼ったところを揉まずに5分くらい強めにおさえてください」

達海はガーゼシールをとってチラっと見、もどして言われたとおり押さえ、まわる丸椅子からどかないまま

「揉むといえばさあ」

と発した。
無事役目を果たし油断していたの肩は派手にビクりとはねた。
この男は、脚のこと以外にもに変なトラウマを残していく。

「この前ごめんね、おっぱい」
「あの・・・いえ・・・こちらこそ、すみません・・・」
「なんで謝んの」

色々な意味ではやく帰ってほしかった。

「持田、なんていうの?」
です」
、このあとヒマ?」

まるでナンパである。

「・・・仕事が」
「いつ終わんの」

まさにナンパである。
はさすがに達海の女性関係の情報までは把握していなかったが、現役時代はさぞ引く手数多だったころだろうし、スタイルや顔立ちもわりといい方だと思うし、ああでも左手に指輪がないからご結婚はされてないのかもしれない、ということは今もまだとっかえひっかえで、でも雰囲気からは決してそんなふうには
は混乱をきたし呂律が乱れた。

「そのあとは・・・大学に戻って、ちょっと、研究が」
「そう」

達海は腕を押さえて立ち上がる。
引きの早さに拍子抜けした。
ナンパは自意識過剰で別のことを話そうとしていただけなのかもしれない。

別のこと

背を向けた達海の脚を見た瞬間、引き止めたくなった。
その脚を診せてほしい
いますぐに
蓮の

「アリガトウゴザイマシタ」
「待っ」
「ん?」

目を見た。
怖気づく。
いやになる。
公私混同という言葉で自分を諌め、嫌悪した。

「・・・注射のところ、腫れてしまうのであさってまで激しい運動はさけてください」

代替の定型句が出たことにほっとした。



「できないよ」

目を見張る。

「激しい運動」

声が出ない

「フットボール」














***



「ただいま」
「おかえり」

しばらく玄関と廊下で見つめ合う時間が合った。
同じ瞳で互いの心をさぐりあう。
扉が閉まると持田蓮が肩にかける発泡スチロールの大箱が扉にぶつかった。

「・・・そのクーラーボックスどうしたの」
「シロさんからおみやげ」
「キャンプの帰りに魚でも釣ってきたの?」
「知らないよ。もうシロさんのせいで超肩つかれた。さあシロさんにお礼メール返すとき言っといて。軽井沢で話題のレアチーズケーキわざわざ買ってきてくれてありがとうございます★無駄にでかいクーラーボックスまでつけていただきましたが東京暑すぎて超無意味★いたんじゃいました★おかげさまで私の大切な蓮がお腹を壊しちゃったゾ★黄金の肩もズタボロ★シロさんだいっきらい★って」

最後の「って」とそれまでの声の温度差が劇団のひとのような技術だった。
笑ってクーラーボックスを受け取る。

「蓮はいつもシロさんに迷惑ばかりかけているんだから、そういうこと言わない」
どっちの味方なの」
「蓮」
「お風呂一緒にはいろっか?」

持田は機嫌を取り戻してにこっと笑った。

「暑い」

はにこっと笑った。

風呂へ続く道々に衣服は点々と脱ぎ捨てられ、はその衣服を拾い集めて洗濯カゴに放り込む。さらにはぐちゃぐちゃのカバンの中から洗濯物を引っ張り出して、あまりの汗臭さにそれらは洗濯機に直接放り込んだ。
は震える息で安堵の息を無理やりにおとした。いつもどおりだ。いや少しの緊張があった。しかし達海の前で揺らいだ心は双子の前では心の底に押しとどめることができた。これでいい。
風呂から上がるまでになにかすぐに食べられるものを用意しようとキッチンに立つ。なんでもいいからしたかった。双子のためにできることを
「できないよ」
頭の中に鮮明な声がした。
顔の半面を手で覆う。






まもなく、リーグジャパンの後半戦が開幕する。




























***



「ねえ後藤」

事務所に残っていたのはもう後藤ひとりだった。

「お、ちゃんと注射受けてきたか」

達海は後藤の横のデスクに腰掛け、脚をぷらぷらと揺らす。
腕にははがしわすれたガーゼシールが貼られたままだった。
壁をむいてガリガリくんをかじる。

「まったく、こんなことで有里ちゃんを困らすなよ」
「俺のこと殴って」
「は?」
「若いのいじめた」






先を行った者として、伝えたかったのはもっと別のことだったはずだった。
慣れないことはするもんじゃない。おっさんくさい上にしくじった。

家族がどれくらい心配するか 知っている。
どんな顔をするか
どんなことをしたいか
どんなことをするか

勘当されるんじゃないかってくらい家に帰らなかったのに、家に帰ったら帰ったで夕食がならんだ。ちゃんと自炊してたのかとか、英語しゃべれるようになったのかとか、金髪のお嫁さんきたらどうしようかと思ったとか笑って話していた。

時差ぼけで目が覚めた夜中、冷蔵庫に水を取りに行ったら台所の端っこに分厚いドイツ語の本があった。
「今日のごはん」「家庭の医学」「平野レミの愛情おかず大全」のとなりに足の骨の医学書だ。
油で汚れて変色していた。
ページには鉛筆のうすい文字でずっと対訳が書いてあった。



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