「紅葉」
二段ベッドの上から開かれた星座図鑑がおりてきました。
蓮が突然星にハマったからです。
思春期特有のカッコつけでおじいちゃんの本棚から星座図鑑を引っ張り出し、二段ベッドの上を陣取っている蓮は「紅葉、ねえヤベえ星座超おもしれえ」「星カッケ」「神話の神様エロッ」「紅葉これ見て超新星カッコよすぎてウケる」とベッドの上から図鑑が差し出される日が数日続きました。わたしは、夜遅くまで部活をしているのにすごいなあ、と思いながら落ちてきた図鑑の見開きページを読みました。
部活で足首の捻挫をした瞬間から蓮は星への興味をなくしました。なにもかもに興味を失って、伸びたタコのようでした。
「つまんない」しか言いません。
わたしはなすすべもなく、返却を求められない星の図鑑を読み続けました。
<死者をよみがえらせたアスクレーピオ>
世界保健機関のシンボルマークにも起用される蛇の巻きついた杖の持ち主の神話が載っていました。
「ねえ蓮、これを見て」
「・・・」
ベッドの上に図鑑を開いて差し出しますがしばらく受け取られませんでした。
「これを見て」
もう一度言うと、図鑑はひゅっと上に吸われました。
「その人ね、お医者さんの天才で、いろんな病気とか怪我をなおして最後に死んだ人を生き返らせたら神様が怒って、殺されたんだって」
「・・・つまんねー」
「蓮の捻挫治してくれたらわたし絶対怒らないのに」
「紅葉」
自分が上から覗き込んでいて驚いた。
「・・・」
違う、蓮だ。
「今日夜行く日じゃないの?」
「・・・あっ!」
時計を見て跳び起きた。頼まれて代わった当直である。
「やっぱり」
大急ぎで服を脱ぎ捨てケータイをカバンに放り込む。あと5分でマンション出て徒歩のプロセスを全てダッシュに切り替えたらまだなんとか間に合うはずだ。ウォークインクロゼットから一瞬で着られるワンピースを引っ張り出す。
「お嬢さん、パンツとブラの柄が違いますぜ」
「別に見せないもの」
「車出す?」
「大丈夫ありがとうごめんね」
つんのめりながら洗面台に駆け込んで、ゆっくりついてきた蓮はドアに寄りかかって洗面台の鏡越しにこちらをじっと見ていた。
「・・・やっぱ送るよ」
だいじょうぶ、走れば間に合うもの
と歯磨きをしながらもごもご言った。蓮は肩をすくめてつまらなそうな顔をしたから伝わったのだと思う。
急ぐ体、焦る頭のなか、いつもと逆だとふと気づいた。
いつもは蓮が遅刻しかけて「今日練習ある日じゃないの?」と起こすのが常だった。
靴をつっかける。
「それじゃあ」
さかさまだ。
「いってきます。夜ご飯、ごめんね、冷凍庫にエビピラフが」
脚もさかさまになってしまえばいいのに。
(愚か者)
「ダイナモネクストあげる」
有名なスポーツ飲料がトートバッグのなかに落とされた。
先日蓮がCMイメージキャラクターに起用され、3箱分も送られてきたものだ。
蓮がやさしい。
心配になった。
「蓮・・・どこか痛いの?」
チョップされた。
***
深夜3時
コンビニで栄養ドリンクへ手を伸ばしたとき、別の人も同じものをとろうとして直前で微弱な電流が走ったように紅葉の手だけ止まった。
「紅葉じゃん」
達海だ。
心臓が強く打った。
骨伝導で耳に届いた心音は少女マンガのト書きにあるような擬音ではなく、病人のそれだった。
「おまえ平気なの」
大丈夫です、どうぞお先にといった内容をほとんどうわのそらで唇の端からこぼした。
「そうじゃなくて、顔色悪いよ」
「そんなことはないです」
「・・・そ」
達海は栄養ドリンクを2本取ってカゴに入れた。
在庫はそれきりだった。
ひとつ隣にある別の栄養ドリンクというか美容ドリンクを取るべきか一瞬考えたが、達海が取った2本は自分のぶんも含まれている気がした。
「遅いね。仕事?」
パンの棚へ移動した達海がひとりでしゃべっていたので、追いついて「今日は当直で休憩中です」と応じた。どうして追いついて並んでしまったのか。これでは自縄自縛。
達海は小さなパンケーキが2組入った袋を取ってカゴにいれた。さすがにこれは達海がひとりで食べるものだと思い、紅葉は落ち着きなく遊んでいた手でBLTサンドを一つとってみた。これまでは弁当を作っていたが最近は疲れに負けてこのコンビニに頼りきっている。加えて今日に至っては遅刻寸前で駆け込む始末。猛省が紅葉の背を噛み続けている。
視線を感じた。
達海は紅葉のBLTサンドをじーっと見、どこか不満げに唇をとがらせている。
なにか悪いことをしただろうか。
「タマゴサンドのがおいしいよ」
「・・・」
よくわからなかったけれど、紅葉はパンの棚と手元を見比べてハラペコタマゴサンドに取り替えた。
達海はあきれた顔をした。
「おまえ持田と似てるのホント外側だけな」
「そんなことはないです」と口走りそうになった。
六度目の”ただの炎症”で二ヵ月半試合に出られなかった。ついこの前、達海のETUとあたる試合でようやく復帰したけれど、紅葉の心臓はずっと、双子の片割れが担架で運ばれたテレビ映像を見たときのままきつく掴まれている。
“このひとが目の前に現れてから綻びていったんだ”
それはあまりにもひどい八つ当たりだ。
“なにもできないならおまえは心臓をきつく掴まれる資格もないじゃないか”
その言葉のほうがずっと真実に近い。
なにもかもがちぐはぐだ。
紅葉はタマゴサンドを持ったまま、背後霊のように達海の後ろをついて歩いた。
ジャージの後ろから達海の膝の裏と足首を見ていた。
この期に及んで看たかった。
どうして走れなくなってしまったのか。
どうしてサッカーをしないのか。
できないのか。
MRIでスキャンして全方位からその脚を調べたい。
本当にもう、だめなのか
ガッ
急に立ち止まった達海の左足首の裏に、紅葉のつま先があたった。
「イテ」
達海が小さく呟き、紅葉は総毛だつ。
振り返った達海は紅葉からタマゴサンドをとりあげる。
「お会計869円になります」
心臓が壊れたみたいに脈打つ。
「ありがとうございましたー。またおこしくださいませー」
「ごめんなさっ」
「コンビニくらいで大げさだろ」
隅田川沿いのランニングコースは等間隔の電灯が消失点まで延々続く。
明けてもいない朝3時、見渡す限り二人をおいてほかには人っ子ひとり見あたらなかった。
「ごめんなさい」
「だからいいって」
「ごめんなさい」
「しつこい奴だなー」
コンビニを出て1分。
しびれをきらした達海が振り返ると紅葉は弱っていた。
夏バテか貧血に見える。
ただ色白という可能性もある。
いずれにせよ弱っているのは確かだ。
かかとにぶつかったことを謝罪して、ガラスを割ってしまってびっくりしている子供みたいな顔をしている。
とりかえしがつかないことをしたのかい?
***
隅田川沿いの公園のベンチでジャージを膝上まで折り上げられた。
ふくらはぎを持ち上げたり、半月板を叩いたり、さすったり、手術痕を撫でたり。
体温の低い細い指で下から上へ触られるのがくすぐったいったらない。スネ毛もあるし、こちとら正直おっさんだ。
「もうい?」
返事はない。
聞こえていないのだろうか。目が怖い。
「蚊にさされるよ」
返事はない。
ため息を落とす。
「お医者さんが外でこういうことしていいの」
「だめです」
聞こえていたらしい。
「じゃあやめとけって」
「・・・わたしがただ個人的に、達海さんの足に触りたいから触っています」
「その言い訳もさあ、なんかエロいよ」
眉も動かしやしない。
じっと見おろしていても気にもとめない。
真剣で必死な目は試合の持田とおんなじだ。
でも持田じゃない。
おまえは持田じゃないし、俺は持田じゃない。
「見る意味あんの?」
「・・・」
「俺の脚と持田の脚の怪我は違うだろ」
「・・・」
「ちがうけど、壊れるまで走るだけだよ」
長い沈黙をおいて
ひたいが膝にゆっくりぶつかった。
つめたい両手のひらが膝をやわらかく圧迫する。前髪がくすぐったい。親指が半月板を下から押し上げた。
これはなにかの手当てだろうか。
それとも祈っているのか。
声をひとつ、おとしてみた。
「・・・おまえ、持田の脚のことどこまで知ってる」
しばらく待つと息のような声が、知らない、と言った。
膝をへんに熱い息がかすめる。
「聞かないの」
「聞けない」
「平泉のおっさんが言ってた」
言うな
「もう、休ませて治るようなもんじゃない」
祈りをささげていた顔があがった。
その顔を二度と忘れられない。
***
呼び出しの電話が鳴り、走って病院に戻った。
穏やかならざる精神状態、慌しくなった院内で、しかし頭と目はへんに冴えていた。
処置は適切に精密にそしてすみやかに完了した。
終業後は大学の研究室で何千回目かの「変化なし」を記録した。
イヤホンからは「何度でも」が鳴り響き続ける。
セミが泣き喚く。
汗が伝う。
無人のマンションの玄関で糸が切れた。
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