荒天のため、室内でのフィジカルトレーニングに切り替えられた。
7月の雨は蒸し暑い。
天気予報によれば夕方から夜にかけ雨はさらに強まり、土砂降りになるらしい。
「持田・・・ちょっといいか。聞きたいことがあって、だな」
練習後、意を決して声をかけた。
監督への報告が終わった頃にはロッカールームには持田のほかには誰もいなかった。持田はまたアイシングをしていたのだろう。
沈黙とするどい視線が向けられ、機嫌が悪いと肌で感じる。
「・・・答えたくなかったら答えなくてかまわない」
やめておけと心のどこかで警鐘が鳴る。
「もったいつけてると帰るけど」
言うが早いか持田は踵を返した。
通り過ぎた腕を慌ててつかまえ、その勢いで言葉は飛び出していった。
「紅葉さんのことだ」
「・・・」
持田は振り返らなかったが、歩き出しもしなかった。
切り出してしまったのなら言い切るほかない。
まっすぐ持田の背を向く。
「確かめておきたい。おまえは紅葉さんをひとりの女性として愛しているのか」
「・・・ブッ、うける」
「うけるな。真面目に言っている」
「うけるよ。だってなにそれ。シロさん、紅葉のこと好きなの?」
ゆっくりと振り返った持田の目と唇は薄く赤い弧を描いていた。
笑ってなどいないのに笑って肩を揺らしている。
射すくめようとする視線を撥ね退けた。
「はぐらかすな」
持田は興醒めとばかり、視線をはずして自分の爪のささくれをガリ、ガリとこすりあわせはじめた。
「エッチしてもいいけどさ、孕ませないでね」
「持田!」
「うるさいなあ」
持田は言った。
あんなやつ、知らない
子供のような言葉を
その右足の痛みにさえ声をあげないおまえが
どうしてそんなに痛そうに言うんだ。
ケンカでもしたのだろうか。
外は夜のように暗く、雨が帯状に揺れていた。
腑に落ちないものの正体に思いをめぐらせるうち、自分にほとほとあきれはてた。
バラバラになっていたチームは点と点だったものがほんの少しずつではあるがようやく線になりつつある。しかしそうであっても前半戦の黒星が白に転じるわけではないのだ。このあとの全試合、全力で勝ちあがる矜持を胸に刻んだ矢先、チームメイトの妹に惚れた腫れたでエースの逆鱗に触れた。
キャプテンが聞いてあきれる。
プレミアリーグの試合でも見て学ぼうとかぶりを振ってリモコンを手にとったとき、雨音が急に激しさを増した。
ガラスを叩く雨は小石がぶつかっているかのような音をあげている。
雨戸を閉めておこうと窓に寄ると遠くの空がカッと光った。
黒い雲を見上げる。
雷鳴はインターホンと同時であった。
インターホンのモニタ越しに見たのは黒いパーカーを着た持田だった。
傘を持っている様子はない。
びしょ濡れだ。
フードをかぶっているがフードごときでしのげる雨風ではない。
あいつ、なにをやって
「シロさん」
紅葉さんの声だった。
部屋のドアのインターホンが鳴った瞬間バスタオルを広げて飛び出した。
「紅葉さんどうして、びしょ濡れじゃないですか、持田は?車で来たんじゃ、まず拭いて、どうしたんですか」
紅葉さんはぼうっとして何も返さない。
濡れた手を拭いたときその体温があまりにも低いことに気づいて「ともかく風呂へ」と脱衣所に押し込んだ。
ちゃんと動き出すだろうかと心配していたが、しばらくするとシャワーの音が聞こえはじめてほっと息をついた。
来る途中に傘が吹き飛ばされたのだろうか。
ティファールの電気ケトルをONにして、前にファンから貰ってとっておいたはずの紅茶を探す。
「・・・あ」
風呂、お湯を張ってなかった。
そして着替えだ。
紅茶を探している場合ではない。メーカーから貰ったばかりの箱をひっくり返し、新品のジャージを確保した。しかしさすがに下着は用意できない。急いでコンビニで買ってくるかと考えたが、いまあの状態の紅葉さんをひとりにすることは避けるべきと判断した。
ちゃんと気づくよう3度高い音でノックした。
シャワーの音が続いているのを耳でしっかり確かめてバスルームへ続く引き戸を開く。
温度と湿度が高い。
「タオルと着替え、これを使ってください」
正面の水道には濡れた衣服があった。見てはいけないような気がして左のバスルームを見ないよう右を向いたら全身鏡に揺らぐ肌色の形がすりガラスが映っていた。慌てて真下を向く。
バスマットの近くにジャージを寄せた。
返事は無かった。
無視しているだけならいい。
もし口を聞けないほど具合を悪くしていたら
「シロさん」
すりガラス越しに声がした。
声がきけたことに安心した。
突然シャワーの音が止まる。
出てくるのではないかと不安がよぎって思わず身を屈めた。
意識してバスマットだけを見る。
「どうしていれてくれたんですか」
シャワーをとめなくては聞こえないような声だった。
感情が読みとれない。
「どうして」
「・・・そ、それは、あんなに濡れていたら驚いて」
「わたしをかわいそうだと思うから?」
はじめて聞く声音
「どうして」
バスルームの扉が開いた。
開いて
床に置いた
着替えから顔を
上げる
と
ああ、
ああ・・・
つまらない試合を見下ろす持田のようにぼんやりとこちらを見下ろしている。
唇がうすくわらう。
「もう治らない蓮の足を治そうとしているから?」
ボタボタとシャワーをあびたばかりの体から水滴が落ちる
目にした体、問われた声と意味に持っていかれて動けない。
うつろな瞳は正面の壁に備え付けられた全身鏡へと移っていった。
視線がはずれたことで金縛りがほどけ、動けないでいた頭を泥に沈むようにゆっくりとバスマットへもどした。
水の伝う足の指が不意に強張る。
赤かったつまさきが白くなる。
ぎゅうと硬く、曲がる。
「わたしのからだ、蓮のスペアならよかったのに」
紅葉さんは膝を曲げ背を曲げて小さくうずくまった。
鏡を拒むように胸の前と下腹部の前を細い腕が遮っていた。
頭を伏せた奥から、ひきつる息遣いが小さく聞こえた。
バスタオルを掴んだ。ほそい肩へかけた。くるめた。
くるんだバスタオルごしに抱きしめた。
やわらかいひたいを自分のシャツの肩に押しつける。
肩が濡れた。
かまうことなかった。
新品のジャージを着てもらいソファーに座らせた。
外の気温が下がり、部屋が冷たくなっていたのでエアコンを一旦切ったがすぐには温度は戻らない。
ジャージは大きすぎて首周りが心もとなかったから寝室の毛布を室内でバタバタはたいてファブリーズをしてから持ってきた。
くるんだ。
セミダブル用の毛布だからこれもまたぼうっと肩を落とす紅葉さんには大きすぎた。
ついに紅茶は見つからずレモネードを作って持っていったころ、ソファーから紅葉さんの姿が消えていた。
ソファーとテーブルの間の床に、頭まで毛布に包まって寝息をたてていた。
寝たふりだとしても起こすべきではないと思った。
ここで寝られたって、俺が紅葉さんに手を出しでもしない限り誰も困りはしない。
ひとり、困っているかもしれない奴を思い出した。
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