原稿はすこぶるはかどった。
真夜中に差し掛かっても創作意欲やまず、源泉のように書きたいものが湧き上がり、すさまじい速度で描けるはずの自分の手を今日ほど遅いと思ったことはない。
仕上がった原稿が次々天に舞い上がり、インクストックのほうが先に音を上げ、ガッデムと机をたたいて顔をあげると初めてくらっときて、ひどく喉が渇いていることに気が付いた。
仕事机の置き時計は6月26日深夜3時を示している。
高校生が帰ったのが18時頃でそれから書き続け、つまり9時間ただひたすら書き続けていたことになる。まもなく海開きを迎える杜王町は蒸し暑く、暑いと気づいてはじめて汗がふき出した。原稿に汗がポタリと落ちたのであわてて仕事机から離れた。
「水」
名残惜しくも仕事部屋を出て、一階に降りるとリビングは青白く明るい。
「雨戸を閉め忘れた」
窓の外には満月をすこし通り過ぎた月が浮かんでいる。
背に視線を感じた。

「なんだ、起きていたのか」

は起きていて、カゴのなかにおとなしく座っていた。
カーテンをひいて明かりをつけると、白いタオルと珊瑚色の着物の色合いが目に好ましい。後ろに長く引きずる艶のよい髪と白い布の広がり具合もいい。確か、裳といったか。
「…おはようございます、露伴様」
「バカをいえよ。いま夜中だぞ」
冷蔵庫からとった水をラッパ飲みすると乾いた体にしみわたる。
は天井のシャンデリアを模した明かりをじっと見上げていた。
口を拭う。
「それは太陽の光じゃあない。電気を知らない君には不思議だろうが、ホタルの尻だって光るんだ、それほど驚くことでもないだろ。…ホタルはわかるのか?」
「蛍は、はい」
「中途半端な記憶喪失だな」
冷蔵庫を閉じたとき、また背に視線を感じた。
キッチンとリビングを仕切るカウンター越しには大きな目をぱっちり開いてじっと露伴を見つめている。
「悪いけど、ぼくは漫画を描きたいから君の相手をしている暇はないぜ」
いや、露伴の向こうを見ている。
「ああ。これは冷蔵庫、食べ物を冷やす機械だ」
「きかい、とはなんでしょうか」
「機械も知らないのか、あきれるな。機械はそうだな、君にわかるように言ってやると…“仕掛け”か」
ふむ、と露伴はを真上から見降ろせるところまで行き、自分の顎をひねる、
「案ずるより産むがやすしだな。よし」
言うや否やの後ろ襟をちょいと摘み上げ、落とされやしないかと硬直しているを、冷蔵室の二段目に置いた。隣人にはバターとブルーベリージャムがある。
足がついたが今度は突然の冷気を浴びて驚くをにやり見て

パタン

露伴は冷蔵室の扉を閉めた。

しばし待つ。

なかでガタゴト音がし始めた。

露伴は扉に耳を当てる。

露伴様、とくぐもった、不安げな声を聞く。

くつくつと笑いが込み上げ、露伴様と呼ぶ頻度が上がってきたところで扉を開けてやった。
カタカタ震えて、目を潤ませるに「わかったか」と言って手のひらの上に戻してやると、ひしと露伴の親指にしがみついた。
いじめられた相手にすがりつくなんて、ドメスティック・バイオレンスの被害者になるぞ、君。
通じない嫌味はよして、食事はいるかと尋ねたが、は一度自分の腹に手を置いてから、いいえ、と首をかしげた。












電話の音に岸辺露伴は目を覚ました。

うつぶせに寝ていて、体中痛い。
正気がぶっ飛びそうなほど楽しかった執筆は不眠不休で昼を過ぎ、眠気が限界まで達し、コーヒーを取にと降りてきた階段の踊り場でぐらっと頭が大きく揺れてそれきり立てなくなり、せめて一階リビングのソファを目指してほふく前進し始めたところまではかすかに覚えている。
階段の下、玄関前の吹き抜けの中心で力尽きていた。
鳴り止まない電話に、きしむ体に、ぼやける頭に、イラつきながら怨霊のように立ち上がる。
携帯端末が普及したこのご時世に、固定電話にかけてくるなんてどこのどいつだ。
声色低く出るといつもの編集部だった。
頭をがりがりやる。

「ろろろ露伴先生!あああ、よかった!、ご、ござ、ござご在宅でしたかっ!」

担当はひどく慌て、興奮した様子だ。
「なんですか、原稿ならおととい送ったでしょう。いまだって3話分は先取りで描けていますよ。筆がノってね。まさか、ぼくの原稿を泥水にでも落としたんじゃないでしょうね。それとも山手線の網棚に忘れたとか」
目をこすり、クリアになってきた視界のはしに、リビングのなかのフルーツカゴが映った。
タオルの上にちょこんと座ってこちらを見ている。
ほかに何も置いていないテーブルの上にじっとしていて頭がおかしくはならないんだろうか。
そんなことを思っているうち、露伴は聞きそびれた。
「え?なんですって?」
「で、ですから!おち、落ちついて聞いてくださいねっっっ!」
「ぼくは落ち着いていますよ」
「こ、こんなこと落ち着いていられますかあっ!」
「どっちなんだよ」
間髪を入れずに次がれた担当の言葉に露伴は覚醒する。

担当編集は、岸辺露伴の漫画「ピンクダークの少年」が書店大賞第1位を受賞したと告げたのである。






電話を切ると、露伴は「ふふふ」と笑った。
それから「ふはは」と笑った。
その後「わははは!ははは!よし!よしっ!」と飛び跳ね回った。かと思えば、くるっとを振り返り、ボサボサ頭に目だけらんらんと輝かせてリビングに突進し、を手の上に乗せる。
!いいことを教えてやろう!実はな、いや!まだ言えない、解禁されるまではオフレコなんだ!だがやった、やったぞ!ああ勘違いするな、別に賞をとったことがうれしいんじゃあないぞ、賞をとったことでぼくの漫画を読む人が増えることが、素晴らしいんだっ!」
「賞、ですか」
「バカ、ふふふ、言えないって言っているだろう。明日から忙しくなるぞ、東京の編集部に行って、いろいろと打ち合わせしなくちゃあいけない。ちょっと面倒だがあとに大爆発する瞬間が待っているんだからそこは我慢してやる」
「露伴様、なにとは詳しくわかりませぬが祝着に存じます」

「詳しくわからないだと!」

露伴は急に怒りだし、を手に乗せたまま二階の仕事部屋に駆け込んだ。
を床に置き、資料用の本棚をあさって「ピンクダークの少年」第一巻を探す。それ以外の書籍を容赦なく後ろへ放るものだから辞典、図鑑、スケッチブックに写真集、図版本がの上に雨のように降ってきた。
幸い直撃は免れたものの、引きずる着物を下敷きにされて動けない。
あれでもないこれでもないと探り、ああそうだ一巻は机の上だと露伴は思い出す。
を飛び越え、一巻を手にとり、「これこれ、これだよ」と上機嫌にのところに戻った。

が、

は目の前に広がる形でおちていたスケッチブックをじっと見つめていた。
その目があまりに真剣なので、露伴は勢いをわずか削がれて上から覗き込む。
広がったスケッチブックに描かれていたのは、昨日模写したの寝姿であった。
寝顔を盗み描きされたことに怒るだろうか。今のところ、これが怒り狂うところなど想像できない。
どういう感情の機微が隠れているのか、小さな顔を覗き込むには屈むしかなかった。
は瞬きひとつせず、スケッチブックに引かれた鉛筆の線に小さな手をぴたりとあわせた。皮膚についた鈍色を指の腹でこする。
描かれた着物の曲線にもう一度手を置き、なぞった。
「絵はさすがにわかるだろ?」
「露伴様が描かれたのですか」
「そうだけど」

「すばらしいことです。ああ、なんときれいな絵巻でしょう。繊細で、流れるよう」

は胸をつまらせ、ほうと感激の熱い吐息をこぼした。
と、スケッチブックを挟んで正面にストンと座る。

「…こっちもあるぞ」

おもむろに、スケッチブックの次のページをめくってやる。
たいしたスケッチではないのに、はいちいち大げさに喜んだ。岸辺露伴に嘘をつけないという文字は仗助によって消されたから、もしかしたら露伴に取り入るための演技かもしれない。それにしては淑女が台無しなほど、目を輝かせて、頬を桜色に染めている

「じゃあこっちはどうだ」
「まあ」
「こんなのもあるぞっ」
「素敵!」
「カッハッハ!じゃあこっちも見せてやる、ありがたく思え」
「ありがたき幸せにございます」
「じゃあ次、次はなっ」

喜ぶわりに被写体が何者かわかっているのか疑わしかったので、途中「これ、君だぞ」と言ってみると目を丸くした。
「なんだよ、似てないって言いたいのか」
「わ、わたくし」
自分の輪郭にぺたぺた触り、身なりを振り返りスケッチと見比べて、線をなぞり、自分をなぞり、ついにこらえきれなくなった様子でにこーっと笑顔がにじみ出る。はっとして袂で顔を隠し恥じ入った。
「ほっぺに鉛筆がついてるぜ」
親指の腹で軽くこすってきれいにしてやる。
恐れ、惑い、怯えるばかりだった色が落ちると、年のころが見えてきた。
実はこれは仗助たちと同じくらいなのかもしれないと、露伴は思った。






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