きりのいいところまで原稿を書き終え、シャワーを浴びた。
おしゃれ番長の岸辺露伴だって、スウェットくらい持っている。
ベッドはに使わせているからリビングのソファが今日の寝床だ。
ローテーブルにはタオルを敷き詰めたフルーツカゴが置いてあり、タオルの上には女モノのハンカチが乗せられている。
チラとハンカチをめくるが、もちろん誰もいやしない。露伴はソファに横たわった。

空条承太郎は帰り際、露伴にだけある忠告をした。
「短期間の間に仗助たちが傾きすぎているのが気にかかる。あれは人間の精神に働きかける種のスタンド能力かもしれない」
用心しろと。
なるほど、事前防衛の手段がある露伴の家に置くことだけは許したわけだ。
実際のところどうだったろうと露伴は月明かりの青のなかでリビングの天井を見た。この上は寝室だ。
玄関に置きっぱなしにしたあのドールハウスはなんだ。承太郎の忠告が正しいなら岸辺露伴はまんまとあれの術中にはまっていたことになる。
腹立たしい。
露伴は横向きになって眉間にしわを寄せたまま目を閉じた。

キシ、と音をたてたのはソファではない。

露伴は動かないでおいた。
寝首をかきに来たか、あるいは誘惑しにきたか。いずれであっても彼女はそれを実行に移す前に停止する。恐れることなく、露伴は寝たふりを続けた。
足音は近づき、ついに露伴の眠るソファの後ろに立った。



「…露伴様」



「起きておいでですか」



起こさないよう気を払った小さい声だ。
しばらくそこに立っていたが、それきり声はなく、そして静かに遠ざかっていった。
布すれの音がリビングを出て行く。
「なんの用だよ」
布すれの音が止まる。
「ぼくに用事があったから来たんだろ」
壁に付けられたスイッチを入れ、リビングが明るくなる。スイッチと壁をはさんだ廊下に実物大のひな人形の姿を見た。ひきずる白い裳に豊かな髪が寝癖ひとつなくたゆたう。
暗い廊下で、うつむきながらかぐや姫はゆっくりと振り返った。
こうしてうつむいて、下をむいた長い睫に、潤んだ瞳に、ほそい首筋に並みの男は持って行かれる。抱きしめてあげたいとか、守ってあげたいとか、そういう感情を芽生えさせるのにぴったりな表情としぐさなのだ。
意識してみればなんと演技上手でむかつく女だろう。
「起こしてしまって、申し訳ございません」
ぽつり、ぽつりと言った。
「起きて、ひとりだったものですから、不安で」
「男が横にいないと不安か?」
馬鹿にするように言うとはひとたび驚いた様子で顔をあげたが、みるみるうちに顔を赤くし、また伏せた。意味と意図を理解しているようだから照れているわけではない。
の声が震えだす。
「目に、見える世界の高さが違いましたものですから、場所、が、わからなくなり」
「…」
震える声をのんで、胸のちかくに手をあてた。
次の声は見事おさめて「もう戻ります」と言った。
「どこに?」
たたみかけて逃さない。
「…そう、でした」
はもちこたえる。
「あれはきっと露伴様の寝台です。では、その…土間をお借りしたく」
「土間なんてないよ」
「では外に」
玄関へ
逃げるように行こうとした手を捕まえる。
「何を怖がっている」
「え」
「ぼくに正体を暴かれることか」
「いえ」
「ヘブンズ・ドアー」
糸の切れた操り人形のように落ちかけた体を腕で支え、ゆっくりと廊下に座らせる。布越しにほのかにあたたかい。
リビングの明かりが、さえぎる露伴の背が、の体を陰と陽のふたつに分かつ。
陰の頬に手をそえると、陽の頬がひらりとはがれる。
なに、痛みはない。
竹取物語の間にまた文字が増えていた。

この児養ふほどに、すくすくと大きになりまさる。
三月ばかりになるほどに、よきほどなる人になりぬれば、
            階下から声がする。
            近づかないほうがいい。あれは人間か。得体の知れないもの
            言うとおり、得体のしれないものは怖い。
            言わないでほしい


聞いていたか。
露伴は一番あたらしい記憶をなぞる。

            露伴様のお姿が見えた。よかった
            また知らない場所に来たかと思った。よかった
            けれど、いま露伴様の声が怒っておいでだと思う
            この方も、得体のしれないものをおそれておられるのだろうか
            遠ざからなくては


「おい、君」
ぺし、とやや乱暴に頬のページを閉じると露伴の腕の中でが目をさました。
「ずいぶんとナメたことを考えているじゃないか」
「…え」
「ぼくが君を恐れているだって?ハッ、図に乗るなよ」
何事かわからない様子では露伴の腕に抱かれたまま固まっている。
「言っておくが、この岸辺露伴、君なんかちっとも怖くない!」
間近で目をそらす隙すら与えず言い切ってやった。
はもう「本」は解除してやったのに、身じろぎひとつせず、大きな目を丸くしてぱたぱたと二回だけまばたきした。

「ん?」

露伴はの顔を見て気がついた。
顔を寄せる。



あわや鼻の先が触れ合うかと言うほど近づいて、かとおもえばひゅっと引いて角度を変え、また顔を寄せる。
露伴の息と髪はくすぐったくに触れるうえ、腕に抱かれてもいるわけだが、どうしてかいやらしいことが起こる気配がない。は緊張した面持ちで硬直を続けた。
の頬のラインを海の水平線に見立てるなら、水平線にのぼってくる朝日のように、露伴の目玉がゆっくりとあがってくる。
露伴はじっと、至極まじめにの肌のきめから睫の先、水晶体、瞳孔の収縮までを観察していたのである。彼女が小さかったころにはよく見えなかった部分だ。
鼻の穴まで覗かれそうになっては慌てて露伴の腕から抜け出し、廊下に尻もちをついた。本当なら平手の一発もくらわせてよいところだが、露伴の便利なスタンド能力がそれを禁じている。
目を見開いて、露伴の手がぬうっと伸びてきた。
顔半分が陰陽で二つにわかれているのも不気味さを助長する。康一が見たならこの顔のヤバさがひと目でわかる。これは露伴が蜘蛛の腹を裂いて中を見ようとした時と同じ顔だったのだ。
は動物的な悪い予感に思わず玄関へ向かって走っていた。
「待て」
と言われて待っていたら何をされるかわからない。
はついにドアノブまでもうちょっとというところまで行ったが直前に仕掛けられていたトラップに見事に足をとられてつんのめり、派手な音を立ててドアにぶつかった。

ちょっと本気で痛そうだったその音に、知的欲求に脳内を塗りこめられていた露伴が人に返った。
「なにをやっているんだよ。人んちのドアを壊すのはクソッタレ仗助だけで間に合ってるってのに」
口癖みたいに悪態をつくが、手は親切に玄関灯をつけた。
「おい、おいったら」
うずくまるばかりで悲鳴もあげないのそばに膝をついて、触っていいものかうろうろと手を泳がせる。
しばらくするとむくりと起き上がったので覗き込むと、は半べそかいて唇を引き結んでいた。
ブッ、と思わず吹き出すとがすごい速度で振り向いたのでツンと真顔に戻す。岸辺露伴はこういう変わり身が漫画の次に得意である。
の頬がかあっと赤くなり、一文字にしていた唇が波うち始め、それをこらえようと奥歯を噛み締めているのがバカっぽい。珊瑚色をうち掛けた高貴な姿が台無しだ。

「それ、手」
「…」
「血出てないか?それ見ろ、擦りむいている。」
「…」
「ちょっと待て、待てったら。ストップ!その高そうな袖でふくのはよせ。消毒液と絆創膏くらいは貸してやるから」
「も、申し訳ありませ…」
「ったくせっかく普通のサイズになったっていうのに、中身そのままなら大きくなり損じゃあないか。場所をとらないことが君の唯一の美点だったろ」
「その…ごめんなさい」
「なんでもかんでも真に受けるな。袖こうしてるから立って。まさか立てないわけじゃあないだろ」

擦りむいた両手の平の血がつかないように長ったらしい袖をつまんで浮かせてやる。そのうえでも「申し訳ありません」とおどかされた子供みたいに震えるものだから「なんだよ」と言うと、は痛そうな指で
「あのつづらを壊してしまいました」
と指した。
がつまずいたトラップこと、シルバニアファミリーのあかりが灯る大きn露伴は残像を残す速さで箱との間に入った。
は露伴の体の横からひょこっと顔を出し、後ろを覗こうとする。その方向に露伴は一歩ずれた。なので、今度は逆サイドへ体を傾ける。露伴はまたもそれを阻んだ。これを何度か繰り返すと、なまじ露伴が両袖をつかんでいるので一見楽しくダンスでもしているような風景になってしまった。
包装紙で包まれているのだ、バレるわけでもなかろうに、なぜか息切れした露伴が

「これは、なんでも、ない」

と肩を揺らしてすごんだので、はあきらめ、露伴が袖をひくとおりに前ならえしてリビングの方向へ歩き出した。
露伴が人知れず息をついた矢先、あれほど従順だったが突然くるっと後ろを振り返った。不幸なことにその方向からは包装紙が蹴破られており、横倒しになったかわいらしいパッケージがコンバンハしていた。

「箱庭?」
「バッ!」

はハッとして、あいくるしい瞳で露伴を見上げた。

「まさか、露伴様が…わたく「ヘブンズドアァアア!!」






きれいさっぱりシルバニアファミリーのことを忘れたをソファに座らせ、残り少ないマキロンをぶし、ぶしっと手の平にふきつける。
しみるらしくビク、ビビクっと震えた。
「まだ、だめでしょうか」
「…まだダメだ。消毒液はこれくらいたっぷりやるんだ」
ぶし、ぶぶし!
ビク、ビビク!
マキロンの吹き出し口から空気しか出なくなり、ビクビクが止まった。もっと買っておくんだったと岸辺露伴は静かに舌打ちする。

時計は6月29日深夜0時を回っていた。

指用の絆創膏を二枚並べて手の平に貼って仕舞いである。これはなんですかと尋ねられ、言葉を選び包帯のようなものだと答えるとは納得したが、不思議そうに絆創膏を指で触っている。
カラになったマキロンを捨てて改めてを遠目に見ると、自分の家の洋風猫足ソファに百人一首の姫君みたいな人間が座っているというのは奇妙な光景だった。小さかった時はそうでもなかったが大きくなると特にこう、迫力がある。
「手当をしてくださりありがとうございました」
声をかけられ、ぼうっとしていた露伴は動き出す。
の声には深みがあり、本当に感謝をしているように聞こえて、露伴は理解不能な相手に眉をひそめた。
「君さ、聞いてたかも知れないけど、昼から別のとこに行くんだぜ。君が何者かを調べる施設にさ」
「…はい」
「そこでもそのあと行くとこでも、いじめられた相手に少し優しくされたからってそいつはイイ奴だって信じ込んでそういうこと言うなよ」
「転んだのはわたくしです」
「そうだけど」
ちっともわかっていない。

露伴は「一つ、覚えておくんだ」と人差し指を立てた。

「心細いからといって、心細いですという顔ばかりしていたらいけない。そういうのにつけ込んでくる奴も大勢いる。この世の中、ぼくや康一くんほど親切な人間ばかりじゃあないんだぜ」

露伴の格言のなかに図星があったのだろう。
なにせヘブンズ・ドアーで読んだのだから間違えようはない。
何事か考えこんでいる様子だったの視線がしばらくすると露伴の正面に戻ってきた。
椅子の座り方を少し直し、背をしゃんとして心なしか表情をかたく整えた。
心細くないように装って。
その単純な様子が余計不安を煽り露伴はひどくまずいものを食った顔をする。
「いいか、明日から君はスピードワゴン財団の研究船に乗るが、おそらく空条承太郎という男が付き添うことになる。あの人は、ぼくや康一くんの頼りがいに比べたら足元にも及ばないが少なくともクソッタレウソツキ仗助よりは信頼のおける人だ。困ったことがあれば頼るといい」
「はい、露伴様」
心得ましたと真剣すぎる目が語る。
はおもむろに立ち上がり袂をはらってソファの横へ膝をついた。
指先が前に揃う。
「冷蔵庫に閉じ込められたり、鋭いものでつつかれたりしましたけれど、露伴様はカゴを貸し与えてくださいました。名をお与えくださり、わたくしを描いてくださりました。それをお見せ下さり、あの時は本当に目を楽しませていただきました。新しい住まいは無駄になってしまいましたが」
「あ、あれは別に君のじゃないって言ってるだろっ!ん、待てよ、君なんで知って」
ヘヴンズ・ドアーで消したはずだ。
「この部屋に入るときに一瞬」
はふふと袂で隠して年頃に微笑んだ。
案外抜け目のない奴である。躍起になってもう一度消すのはなんだかくやしい気がして露伴はむすっと口をとがらせるにとどめた。
「露伴様、短い間ではありましたがお世話になりました」
「…あと半日あるぞ。寝たらすぐかもしれないけど」
「そう、そうでございますね。その半日の間にわたくしにできることはないでしょうか。小さいときにはお力になれませんでしたが、この大きさでしたら掃除もできます」
「掃除は間に合ってる」
ゴミひとつ落ちていないきれいなリビングを見渡し、もの知らずのは床を見つめて代案を考える。その様子を露伴は向かいの椅子にふんぞりかえって眺め顎をひねった。
しばらくの沈黙を置いてから「そのかわり」と切り出した。
「なんでしょう」
姫君はうれしそうに声をはずませた。
露伴の視線がその肢体をじっくりと這い上がる。

「体で払ってもらおうか」



<<  >>