「目は月へ」

「首を曲げすぎるな」

「少しあごをひいて」

「動くな、裾のしわをいいようにするから」

岸辺露伴はを大きな窓に面した一角へ座らせた。紺色の空には月が静かに浮かんでいる。
ポーズにいくらも注文を付け、フローリングこと板張りの間にたおやかに広がった着物のしわの付き具合、裳の重なり具合にひねり具合、後ろ髪の束感まで指先で絶妙に調整していく。
は、露伴様はいったいなにをなさっているのかというふうに様子を見ていたが、
「振り向くなよ」
とたいそう怒った調子で言われて、月を見上げるかっこうに戻した。
露伴はその後ろをふむふむ言いながら、近づいたり遠ざかったりしている。
「髪は…こう、だな」
夜に天の川を流したように輝く艶髪を裳の上に述べて、興奮気味に「よし」と言うやスケッチブックを手に椅子に飛び乗った。

田舎町が幸いして街灯も電線も岸辺露伴のフレームに混じらない。
月は、しじみ貝のような形で夜に浮いている。
こんなかぐや姫然としたかぐや姫をモデルにできる機会はまたとない。
世界の景色に、体のかたち。大きく見て、細かく見て、ああはやくここを描いてみたいという局所的性愛に心が沸き立つ。
助走のように上半身を一定のリズムでゆっくり揺らし、椅子はキッシ、キッシとあわせてきしみ、何度目か上がり下がり上がった鉛筆がズゥー…、とまろみを帯びた線を紙に落とした。
の形をおぼえた手が、ズゥ、ズズゥーーーーーー…と鉛筆を動かす。
夢中になるうち楽しいと知っている方向へ手が勝手に動いてしまい、ちがうこの線はどこか違うとランナーズハイみたいな頭で思って、深く下げていた頭を上げる。
もう一度被写体を大きく、細かく、精密に、気持ちよくとらえ、さっきよりも短い助走でまた鉛筆の線をズズゥーーーーーとひいた。

楽しいと知っていることを思いどおりにやるのは決して嫌いじゃあない。
だが、今までにやったことがないことをやってみて、それが楽しいと知った時のよろこびは岸辺露伴にとってセックスにも勝る快感だった。






そこから4時間にわたり、は様々な角度から様々な厳しい要望を受けながら岸辺露伴の写生に根気強く付き合った。
途中、露伴は

「あ!影動くなっ」

「月の野郎っ勝手に動きやがって!」

と手を一切止めず真剣に怒っていた。
けれどなんて熱心に、楽しそうにするのだろう。
露伴自身は高揚状態の無意識だったのだろうが、たまに「うつくしい」「きれいだ」と5文字以内でをほめていた。
「表情変えるな!」
我知らず和んでいた表情をきゅっとひきしめる。
注文どおり目は月へ。
瞳に映る
あれは月
あの月は

「…」

“この星は死んでいる”

「かわいい!!」

叫んだ露伴が椅子から転げ落ちた。
それでもなお一枚めくって転がった角度から新たに筆を走らせはじめる。

「次、うつむいてっ。こっち見ないで向こうだっ」

「そう!」

「表情変えるなったら!笑うんじゃあないっ」












朝の強い光に、露伴はフローリングの床で目を覚ました。
またやってしまった。
体はバキバキに痛かったが、体には露伴の寝室にあるはずの毛布がかかっていた。
朝日が出てきて文句を言ったあたりまでは覚えている。
そのあと自分がどうしたか、がどこへ行ったのか記憶がない。
壁の時計を見ると朝の9時、寝足りないがそのまま寝るにはここは寝心地が悪すぎる。
露伴は毛布を引きずって寝室にあがった。
「あ、間違えた」
寝室はが使っていると思い出し、踵を返したが、

「…」

その足はまた昇り始めた。
音をたてないようにドアを開けると、岸辺露伴の寝室の床には、が着こんでいた見事な色合いの布がきれいにたたんでおいてある。内一枚だけ引き抜いた薄水色の着物はセミダブルのベッドに眠るのうえにかかっていた。
口元まで毛布代わりの着物の下に隠してうずくまっている姿は、起きているときよりも幼い印象である。
遊び心がそぞろわく。
こういう奥手そうな女が、起きたとき横に男がいたらどんな反応をするのか。漫画の参考までに観察しよう。
露伴はベッドの間際の床に膝をつき、シモンズのかためのベッドに肘をついた。
視線というのは不思議だ。
集中してあびせかけると触れてもないのになぜだか相手が気づく。
露伴はじっとの閉じて重なった睫を凝視した。
そういえば昨日はこの睫の角度を描くのが二番目に楽しかったと思い出す。
一番は喉から胸もと。
「…ん」
うわまぶたへかかる力の加減がわずかにかわる。
雨戸を閉める方法を知らなかった目が、差し込むまぶしさにぎゅっと力む。
眉間によったしわに岸辺露伴は無慈悲な人差し指を突き刺した。とたんに目がばっちり開いた。
「ハッ…」
目が男を、露伴を見つけた。
悲鳴をあげろ
跳びあがれ
胸元の合わせ目を確かめろっ
「おはようございます」
眠そうななかでも精一杯にまともな声で、は笑顔をつくった。
「このやろう…!」
「寝台を貸してくださってありがとうございました。昨日露伴様がおっしゃっていたとおり、しもんずのべっどはとてもよい寝心地でした」
「全然よくないっ。台無しだ!言った記憶ないし、いや昨日は途中から記憶ないけど、それにしてもなんだその反応は」
「全然よくない、のですか…。露伴様は寝台になみなみならぬこだわりがおありなのですね。わたくしが感想を申し述べるなど、しろうとの差し出口でした」
「そういうことじゃあない。ああ、もういい」
露伴はあきれて一階に下り、身支度を整えた。
痛む肩をまわし、床で寝るのはもうやめようと思いながらリビングへ向かっていると何か見えて、通り過ぎた部屋へ体を戻す。
そこは昨日、描いた部屋だ。

「なにをしているんだ」

はぱっとソレから身を離した。
「別に見るなとは言っていないだろ」
ひろく裾を広げているのに所作ばかりは小さく、は露伴が昨日使ったスケッチブックを閉じて、そばでじっとしている。
「いいって。見たきゃ見ろよ」
露伴の様子をうかがいつつ、おずおずと白い手が伸びてスケッチブックを再び開いた。
繰っても繰ってもかぐや姫の落書きが続く。その落書きを真剣に見つめるを露伴は横にかがんで観察する。

「…上手です」
「そりゃどうも」

自信家の露伴だから決して口にはださないけれど、露伴自身はそれほど上手くはないと思っている。
時々線が揺れるのを担当編集は味だと言ってほめたりするが、その線は揺らしたくてそうなったんじゃあない。もっと練習をして、いろいろなものを描けるようになって、うまくなりたい。

「仗助様のお屋敷で拝見したご祖父様の絵はありのままを写し取ったがごとく緻密でありましたが、露伴様の筆はまた違いまする。ありのままとは見えませぬ」
ページを繰っては目を輝かせ、子供を見るようだ。
見た目は大人っぽいのに。
「それに、描いている露伴様はとても楽しそうで」
笑みをこぼした。
自分こそ、と露伴は返さずに
「ずいぶん絵に興味があるみたいじゃあないか」
の膝に鉛筆を転がした。
「ぼくの絵ばかり見るのはずるいから次は君が描いてみろよ。ほら」
露伴は少し距離をあけてあぐらをかいた。モデル様である。
はぞっとしたように首を横に振る。
「なんでだ?まだ行くまで時間はあるんだし、きみは暇なんだから描いてみろよ」
スケッチブックは手元にある。
「わ、わたくしなど、作法も知らぬ不調法ものにございますれば」
「絵を描くのに作法なんてない。作法をとやかく言うやつもいるがぼくはそういうやつが特に嫌いだ」
「いいえ、いいえ、それにその、このように高価な紙に」
「バカを言え、今はケツを拭くのさえ紙なんだぜ?スケッチブックの一枚に描くくらいズバっと行けよ」

尻込みするのを言い負かして、は強いられるようにスケッチブックの新しい一枚に鉛筆の芯をつう、と落とした。
握り方がまるで筆で、か弱い線がふよふよと泳ぐ。
露伴が首を伸ばして覗き込もうとすると、スケッチブックを立てて隠した。
「なんだよ、ケチ」
「見ないでくださいませ」
頬など赤らめて恥ずかしがる。
この反応に露伴の顔は我知らず悪いほうへ緩んだ。
「じゃあいいから、さっさと描けよ」
たじたじになりながらもは目を露伴とスケッチブックの間で何度も往復させた。わざと露伴が目を合わせて恥ずかしがらせているとも焦りのあまり気づかずに、緊張して手が震えているのを見るのは面白い。
「ガチガチだな。ひとつアドバイスしてやろうか」
「…あどばいす、とは」
「もっとリラックスしたほうがいい。肩の力をぬけってこと。君の時代と一緒に思うからいけないんだ、いま本当に紙は安いんだよ。もちろん高価な紙も世の中には存在するけど、そのスケッチブックに関してはやんごとなきお方しか使えないようなものじゃあない」

納得したのかしていないのか、は黙って生真面目に鉛筆を動かすのを再開した。
さっきまでの脂汗を垂らすような表情は薄まった。
緊張がとけたのだろうか
ほかの表情も消え去っている。
土曜日の朝の部屋が静けさを思い出す。

「…わたくしの時代とは、いつでしょうか」
「ぼくが知るかよ」
「わたくしも存じません」

いつのまにか手の震えは止まっている。
露伴を見ない。
「筆を持つ手を知っていて、筆で書いた覚えはありません。衣をまとう順番は知っていて衣を賜った覚えはありません。わたくしは…」
引き結ばれた唇がわななく。

「わたくしは、へんです」

声はひどく震えていて、いま手をふるわせているのは緊張からではないだろう。
下のまぶたにたまった涙をひとつもこぼすことがないよう目を見張っている。
「心配するな」
露伴はの気づかないうちに、の背に手をあてられる場所まで来ていた。
「君はへんではない」
やさしい言葉には思わず

「君のこの絵に比べたら全然へんではないよ」

ブフッっと露伴はの顔のすぐ横で噴き出して笑った。なおやまずあふれ来る笑いを、手で口を覆い全身を震わせて、露伴は必死に耐えている。
は口をあけて、かと思えば急激に顔を赤くしてスケッチブックを抱き隠した。
「おいコラ隠すな。なに、絵の世界ではなヘンっていうのは決して悪いことじゃあないんだぜ?もう一回見せブフ!」
「わ、笑わないでくださいまし…!」
「だってこれ、なんだよコレ、なに描いたらこんな知恵の輪みたいに」
画伯の前衛的なスケッチを脳裏に焼きつき笑いが止まらない露伴に、さすがのもむむむと来たらしく、
「露伴様を描きましてございます」
と珍しく強い口調で言い放った。
これは露伴も聞き捨てならない。
「どこがぼくだよ」
「そっくりです」
「なんだと」
「そっくりです」
「ぜんっぜん違うだろうが!いいか、ぼくを描くならこうだ」
露伴はからスケッチブックを引っぺがし、一枚めくって床でザザザッと一気に描いた。
意味のない線が次々意味を予感させひとつの形を成していく。
「どうだ!」
見せつけた。
「はは、ぐうの音も出まい?」

まったくそのとおり!

と、は目を輝かせて感激している。
悔しさに歯噛みする反応を求めていたのに、そんな、テレビの戦隊モノヒーローに会った男児みたいな素直で純粋な反応をされるとやりにくい。
いま、世の善をつめ込んだまなざしが岸辺露伴の邪悪を攻撃しているわけだが、こういうのは攻撃に入らないのかヘブンズ・ドアー。

「君さァ…、本当にむこうに行ってから誰にでもそういう、なんて言うかな。なんて言うんだ君みたいな奴は」
と申します」
「名前を聞いたわけじゃ」



ピンポーン



間の抜けたチャイムが鳴った。
忘れかけていた、今日の予定がやってきた。



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