空条承太郎に、休みだというのに仗助たちまで押しかけてきて、運送業者の車に偽装したスピードワゴン財団のトラックが岸辺露伴邸の庭に横づけされた。
玄関での別れは涙に濡れることもなく、案外あっさりとしていた。

「露伴様、由花子様、億泰様、康一様、仗助様、お世話になりました。いまご恩を返すことは叶いませんが、再び御前にあがる機に巡り合えました折には必ず報います」
たおやかに裾をひろげ伏せたつむじにこつんと本を置く。
「やるよ」
ピンクダークの少年 第一巻
「初版本だ」
は呆けたように表紙を見つめている。
「あら、プレゼント?」
「うわっ!露伴センセいいとこあんじゃん!」
珍しくも良い風景に立ち会い億泰はアホらしい声をあげ、康一はにっこり笑った。
「これは餞別だが、拾って家に置いてやったぼくの恩に報いるというならそれをSPW財団の連中に布教して読者を増やすのに貢献すると一石二鳥だ、ぼくにとって」
「その言葉がなければよかったのになあ」
康一は苦笑に切り替えて頬をかいた。
仗助だけは何も言わない。
「こんな大切なものを、いただくわけには参りません」
ながらく表紙と見つめ合っていたが大層焦った様子で露伴の胸に本を返した。
「このすけっちぶっくは小さいですが、この世にたった一つのものです」
「それはスケッチブックじゃない。コミックだ」
「こ、こみっく。このこみっくは露伴様の上手な絵がたくさん詰まっているものです。後世までも露伴様の一族の誉れになるものを賜るわけには」
露伴は受け取らず、腰に手をあてふうとため息をついた。かと思えばの肩に手を置き、くるっと反転させる。
「ほら、行った行った。それは複製物だ、ぼくのコミックがどれだけ売れていると思ってるんだよ。侮らないでくれ」
もう会うこともないから昨日に書きつけた命令は消してやった。

長い付き合いでもあるまいに、高校生たちひとりずつと別れの儀式をすませ、は空条承太郎に伴われて出て行った。

仗助はやけに深刻な顔で「おれもついていきます」と承太郎に頼んでいたが、承太郎はそれを許さなかった。
家のチャイムが鳴って、が出て行き、いま高校生が帰りきるまでに30分と要さず、家の中は数日ぶりの平穏を取り戻した。
ドアに鍵をかけ、踵をかえした矢先にゴンとすねをぶつけた。
包装紙のやぶけたおもちゃの箱だ。
片づけ忘れた。
まさかあの高校生たちに見られやしなかったろうか。見たら真っ先に仗助と億泰がこちらをからかってくるだろうが、それがなかったのだから気づかれなかったのだろう。不幸中の幸いだ。

露伴は箱をほったらかしにして、食べ損ねた朝食をとりにリビングへ向かう。
ローテーブルにフルーツカゴがあった。
食事を済ませ仕事部屋に戻る途中には床にスケッチブックと鉛筆が転がる部屋に足が止まる。片づけるべきか、ただそれだけ思ったに過ぎない。無視して二階にあがる。寝室をのぞいて忘れ物がないか確かめた。
忘れ物はない。
仕事部屋へ行き、原稿に臨んだ。

ついこの前まであれほど燃え上がっていた創作意欲が嘘のように岸辺露伴の筆は鈍った。
鈍ったと言ってもそんじょそこらの漫画家よりはずっと早く描けることにはかわりないのだが、執筆作業はぶつぶつと途切れ、ひどく眠たかった。












トラックの荷台は救急車のうしろのような作りになっている。
救急車を知らないにとっては白を基調とした、窓のない小部屋である。
車が走り出すと、どこから生まれるのかわからない振動とエンジン音には椅子のうえで身をかたくした。露伴から頼りにせよと言われた空条承太郎は向かいの席に座っているが、壁と同じ白い服を着て仏像のように動かない。
視線のあてなく、手元に目を落とす。

ピンクダークの少年 第一巻

に読めるのはこのタイトルの文字のうち「の」だけである。
ほかは読めず、露伴はタイトルを読み上げることをしなかったからいまだにタイトルを知らない。
この先、頼るあてがこの方しかいなくなるなら「この表題を教えていただけないでしょうか」とまずは声をかけて、雑談でもしてみたほうがいいだろうか。そう思って承太郎の様子をちらりとうかがう。
目深にかぶった帽子の影から、不思議な色の瞳がこちらを強く睨んでいたのでは目をそらしてしまった。
忘れていた。
を危険なものと疑っていた階下の声の主はこの空条承太郎だったのだ。
先行きに急に暗い影が差した。
いけない、とは首をふる。
心細いからといって、心細いという顔ばかりしていたらいけないと、この絵を描いた人の言葉である。
心をふるいたたせた。

「あの、空条承太郎様」

初めに出た言葉は不自然に震えた。自らをいさめる。
「申し遅れましたが、わたくしはと申します」
「承太郎でいい」
「承太郎、さま」
「なんだ」
「こ、この“こみっく”をご覧になったことはありますかっ」
「…いや」
「では、どうぞお読みください。とても上手な絵が、たくさんつまっているそれはそれはすばらしいこみっくで」
布教しろと、これも彼の言葉だ
「いや、いい」
「然様、ですか」
しぼんだ。
「あんたがもらったものなんだろ。大切なら持っていろ」
言葉は短いが邪険にされたわけではないとわかったのはをわずかに救った。
やはり、この本の表題を聞いてみようか。
そう思ったとき、車が大きく揺れた。
「向こうには遊び道具はないからな」






財団の特殊船で派遣された研究員は肌の色も国籍もバラバラの混成部隊である。
公用語は英語、日本人はひとりいる。
船に数週間缶詰になるので問題が起こらないよう、潜水艦のように男性だけで構成されている。それが悪いほうに神経をとがらせたのかはわからないが、研究対象として冷静に観察しなくてはならないはずのの容姿を見た途端、ほぼ全員が息をのみ、あるいはにやけた口をおさえ、口笛がジャパニーズ・ビューティーの来着を喜んだ。
奇異の視線にさらされ。は不安げな色を垣間見せたが、努めて胸をはり顔をひきしめ唐衣の衿をただした。その気丈な振る舞いも海外の男に取り囲まれるとアメリカで捕まえられたという宇宙人の写真構図と似ている。
承太郎と研究員が英語で話をし始めると、は不思議そうにじっとその様子を見上げた。
とそのの正面に、青い瞳に栗毛の白人男性が立つ。
口元に人の好い笑みを浮かべ半身ひらいて
「This way, please.」
と言った。
には何と言われているのかわからない。
「This way」
の目をまっすぐに見て、ゆっくり言い直し、向こうを指さし、もう片方の手をの前にひろげた。大きな手だ。ジェスチャーで意味を理解し、がおずおずと左手をあずけようとした瞬間、別の男が割って入って、白人男性の手をから遠ざけた。
首を振り、厳しい口調でなにか言う姿は、安易にこんなものに触るなと、そう注意しているようにには見えた。
トン、と軽く背中をおされる。
「向こうに椅子があるから、そいつについて行って座って待っていろ」
日本語の承太郎の言葉に、はこくりとうなずいた。

行けども行けども、くろがねの道だった。
夏のはしりだというのに船の中はひんやりと冷たい。鉄板に囲まれた狭い通路を歩きながら、は来た道を覚えておこうとそればかり考えていた。
殺風景な鉄の部屋で待たされること数十分、銃を持った男二人と小太りの白衣を着た日本人がやってきて、あいさつもなしにの首に金属製の細い首輪を取り付けた。
「これはなんでしょうか」
がしゃべったことに、日本人の男は面食らった様子だった。あぶらぎった鼻からずれた黒縁メガネを神経質に直し、早口に答えた。
「い、い、居場所を追跡する装置です。あらかじめこちらが定めた範囲から出ると約1500ボルトの電圧がかかるようになっています。取り外そうとしたり、こちらの指示に従わなかった場合も同様です」
先ほどの青い瞳の男とは打って変わって、一度も目を合わせてこない。
「1500ぼるとのでんあつ、とはなんでしょうか」
眉をひそめられた。この世界ではごく一般的な言葉なのだろう。
男の説明はにはよくわからなかったが、それが罰を与え戒めるための道具であることはなんとなく理解できた。



モニタの向こうのには第一工程として、まず所持品の剥奪と全身消毒が行われる。
監視ルームに積まれたたくさんのモニタには、あらゆる角度、遠中近距離から被検体をとらえた映像が映し出されていた。
定員三名の監視ルームは、監視と称して若い女の裸がみたいだけの研究者たちで押すな押すなの混雑だ。
「やれやれだぜ」
研究職でもない承太郎が監視ルームの真ん中の椅子を陣取っているのは、こうなることを予想してのことだった。
最初の連絡にあったとおりの人形サイズならば負傷した音石明の時と同じ編成で問題ないだろうと財団側にそう連絡していたが、まさか直前になって普通の女のサイズになるとは。
しかし、こうなってしまった以上、なんらか対処をしなくてはならない。
「静かにっ、脱ぐぞっ」
「どけよっ、どけったら」
「おいおい何枚着てんだあの子猫ちゃん。たまねぎかよ」
「くぅ!オリエンタルビューティーたまんねえ…!」
監視ルームの声はには聞こえないというのに声をひそめて言い合っている。全員目と鼻の穴は広がりっぱなしだ。
モニタの向こうでは、体のラインをもどかしくうかびあがらせる襦袢に手がかかっていた。なめらかな曲線をえがく肩がのぞくと監視ルームに歓声があがる。

「スタープラチナ・ザ・ワールド」

モニタにむらがっていた研究員たちは、いつのまにか承太郎のたくましい胸板にむらがっていた。しかもどうしてか、ここは監視ルームの外の廊下である。
「あ、あれ?オリエンタルビューティーのおっぱいは??」
そう口走った男は承太郎のひと睨みに「ヒィ」と短い悲鳴をあげた。
しかし裸をあきらめるのはまだ早い。
承太郎の手には一つの小型モニタが乗っているではないか。監視ルームからコードがつながったままのモニタにはに消毒液が一気に噴射されている様子が映っていた。噴射の勢いでの輪郭すらよく見えないのに、男たちはそれでも上から覗いたらみえるんじゃないか、いや下からならと釘づけである。
そのモニタがつぶれた。
ティッシュでも握りつぶすように、承太郎の手がモニタの原型をとどめないまでにひしゃげさせたのである。それをした本人はただただ、無言で聴衆を見下ろしている。
妙な気を起こしたらどうなるか、年頃の娘を持つ空条承太郎は懇切丁寧にわかりやすく彼らに伝えたのだった。
年頃といっても彼の娘はまだ八歳だが。



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