「着ているものを脱ぎ、正面の階段をあがってなかに入ってください」

英語に続き日本語の 機械アナウンスが鉄の部屋に響く。
どこからともなく聞こえた声にはあたりをきょろきょろと見回した。入ってきたときの鉄の扉は固く閉ざされている。反対側に三段の階段と、その向こうにもうひとつ細めの扉がひとつある。声の主はあの扉のむこうだろうか。
「着ているものを脱ぎ、正面の階段をあがってなかに入ってください」
同じ声で催促された。
「ここで脱ぐのですか」
しん、と鉄の部屋は静まり返っている。
取り付く島もない三度目の声にはあたりを気にしながら、着物を締める紐をほどき始めた。
四度目の声に急かされ、五度目の声で細めの扉に飛び込んだ。
飛び込んだ先の部屋は鉄の部屋と打って変わって目がチカチカするほど白色に明るい一本道で、人ひとり通れる道の少し先に出口と思われる扉があった。
ひとまず誰もいなかったことにほっとした。
「あ!」
床が勝手に動きだし、入ってきた扉は閉まり、突如上下左右から無数の水鉄砲を打ちかけられた。滝行の勢いで肌にあたり跳ね返った水しぶきで何も見えない。水の中でもないと言うのにはおぼれそうにしぶきをかいた。
ようやく水がおさまったとおもったら、今度は台風が直撃したような風が襲い掛かってきた。
「消毒が完了しました。扉を出て青い服に着替えてお待ちください」
また人間とは思えない無機質な声が言う。
「は、はい」
ぼろぼろになりながら立ち上がるが、風を当てられすぎた頭がぼうっとして足がもつれへたり込む。さらには前後不覚に陥り、どちらが出口かわからなくなったけれど、床のほうが行くべき方向へ動いてくれた。
「消毒が完了しました。扉を出て青い服に着替えてお待ちください」
「すみません、すぐに」
最後まで機械音声とは気づかず、消毒ルームを出て用意されていた青い検査着に袖を通した。ここもまた消毒ルームのように人工的な真っ白な部屋で正面に大きな扉がひとつあった。
は、向こうにおいてきた着物をとりたかったが今通ってきた細い通路はすでに扉が閉ざされていて、押せども引けども一向に開かない。
青い服は肘から下、膝から下に肌が覗く。
由花子にもらったワンピースを思い出せばどうということはない。動きやすさを重視したものなのだろう。そう言い聞かせ、は胸を張った。が、胸を張ると乳房の線が出るのでちょっとだけ猫背に変えた。







「腕を出してください」
待っていると日本語通訳がわりにさきほどの日本人の黒縁メガネと、外国の男がやってきて導かれた先では腕に針を差し向けられた。
ぞうっと身の毛がよだつ。
しかし、露伴に丸ペンを向けられた時のことを思い出せば、きっとこれは本当に自分へ向けられるものではない。そう思いたかった。しかし、しかし、あおむけにさらした左腕が恐怖を呼ぶ。
針を持つ男の手の動きをはらはらと目で追う。針は案の定の腕に向いた。
「なにを」
男は答えない。引っ込めようとした腕を男の力で机に縫いとめられ動かせない
「無礼者、はなしなさい…!」
「ただの注射です」
「…っ!」
針に押され白い皮膚がわずかに沈み、皮膚を破りなかへ入った。
血が針のうえの容器にすいあげられていく。
「あ…ぅ」
震えて動けなくなっている間に針は抜かれた。ガーゼを渡され押さえているように言われた言葉をさえぎって、は椅子を倒して後ろへにげた。
扉が開かない。扉に背をあて息を乱し、男ふたりを睨む。
腕に熱いものが伝い、ぽたぽたと真っ白い床に赤くこぼれていくのを見て、は慌てて腕を押さえた。手のシワにそって血の赤が濃淡をつくる。
「下がりなさい」
寄ろうとした男に言い放つ。
研究員のふたりは顔を見合わせて、短く異国の言葉で言い交す。青い目の男は肩をすくめ、日本人のほうがメガネをずりあげながらぼそぼそと説明しだした。
「いや、いまのはただの採血で。あなたの血から成分を調べるだけですよ」
「…」
「あなたが病気にかかっていないかとか、健康な普通の人と比べてどれくらい差があるかを調べることができるんですよ。普通のひとがやる健康診断とおなじですけど」
「…そう、なのですか」
の勢いがひるんだ。
「そうですよ」
「…それは申し訳もないことをしました。わたくしの早とちりです。ごめんなさい」
目にも明らかにが警戒を解くと、青い目の男が立ち上がり、に寄って来た。ガーゼで血の網がひかれた腕をふいてまた別のガーゼで血がこぼれる傷口をおさえさせた。言っていることはわからなかったが、しぐさで強く抑えるように言っているのだとわかる。
ガーゼを押さえるのを引き継ぎ、は「ありがとうございます」と小さく日本語でつぶやいた。

そのあと別の部屋に移動してからもにとっては不可解な、普通の人にとっては至って普通の健康診断が行われた。
身長体重視力聴力血圧、虫歯の有無、問診、レントゲン。問診では性交の有無を問われ翻訳していた男の鼻息が荒くなったのがおぞましかった。
最後に紙コップを渡され、尿をとって来いと言われたときにはは顔を真っ赤にして「できません」と言った。すると水を渡され研究員たちがあきらめるまで三時間も椅子に座ったままで放置された。
くろがねの廊下と打って変わって、置かれた真っ白い部屋は吹き抜けで天井が高い。はるか高い窓からは白衣の男たちがガラス越しにこちらを見下ろしていた。



その日の検査項目を終えて窓のない座敷牢のような部屋に案内された頃には、緊張がの体力を削りとっていた。
後ろの扉に外からカギがかかるのをきいた瞬間、振り返って扉を押していたのはほとんど反射的な行動だった。
扉は頑丈な鋼鉄でできていて、鍵のかかった引手はびくともしない。
備え付けの固いベッドと便器しかない部屋では何度も引手と戦った。
出ようと格闘するうち、突然思いがかなって扉が開いた。
扉の向こうにいたのは空条承太郎だ。
「承太郎様っ」
助けの手だ。
しかし、彼はピンクダークの少年第一巻をに渡しただけで、そこから出してはくれなかった。
二度目、鍵がかかった音を聞くとは膝から力が抜けたようにすとんと冷たい床に落ちた。












武器を隠される恐れがあるとして、着物は回収した。
しかし岸辺露伴の漫画だけであれば彼女がもともと持っていたものではなく、別れ際に人からもらったものだ。説明し、渡しても危険はないと許可が下り、承太郎は情けをかけた。

空にしじみの形をした月が出て夜空に定着したころ、船着き場近くにSPW財団が用意した車が回され、承太郎は船を降りた。
見覚えのある姿が目に入った。
外で船の運航クルーとなにやら話しているのはいつものスケッチブックケースを肩にかけた岸辺露伴だ。困り果てた様子のクルーが承太郎の出現に気付くと、その視線を追って露伴もこちらを振り返る。

「やあ、こんばんは」
「こんなところで何をしている」
「彼に中の様子を聞いていたんですよ。珍しい船ですから」
「戻れ」
「ぼくに命令をするな」

大迫力のにらみ合いが始まり、クルーはおろおろとして後ろへ下がった。
が気になって来たのか。承太郎の知る露伴の性格からしたら考えにくい行動だったが、実際彼は夜にバイクを走らせここまで来たのだ。
「まあ、いいか。船のクロッキーはできたし」
露伴は意外にもあっさりと引きさがり、承太郎は用心深くバイクのテールランプを見送った。
「尋ねるが」
バイクが走り去った方向を睨んだまま承太郎が言う。
「は、はい」
「さっきのに何かしゃべったのか」
「い、いいいえ!なにも!」
「じゃあ、何を聞かれていた」
「ええ、えええと、この船の速度とか、積んでいるエンジンとか、何人乗っているんだーとか、武器を積んでいるのかーとか、です」
指折り思い出してクルーは答えた。
重要な事項はなにも言ってはいないというのがクルーの証言だが、あの男は人の心と記憶を読むスタンド使いだ。本人に言った自覚がなくても、いろいろをすでに読み取られてると思ったほうがいい。
やっかいな能力である。
だが露伴もアレが普通の人間ではないとわからないほど馬鹿ではない。安易に彼女をここから出すような真似はしないだろう。
ならばなぜこんなところにいたのか。
ただ心配で、とかいう感情の働く男だろうか、あの漫画家先生は。
真意がはかりきれないまま承太郎は迎えの車に乗り込んだ。
いずれにせよ財団の研究船の近くで騒がれると厄介だ。暫くは岸辺露伴の行動にも注意をはらうべきだろう。この調子で仗助たちまで首を突っ込んでこなければいいが。
車が杜王グランドホテルのゲートをくぐったとき、承太郎は振り返った。
学生服にあのリーゼントは見間違えようはずもない。
「承太郎さんっ」
車を降りると、思いつめた表情で歩み寄って着た仗助から、次に出る言葉は想像がついた。

やはりあの女はどこかおかしい。
ほんの数日のうちにまわりの人間をほぼ全員味方につけている。
承太郎ははっとした。
自分が今日、男どもの目から遠ざけてやったことも、岸辺露伴の漫画を持って行ってやった行動も、すでに奴の能力に影響されているからではないのか。

あれは、病魔のように音もなく、周囲の人間の心をむしばむスタンド使い。



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