夕方、にぎやかな若者たちが帰ったあと、露伴が青い顔でソファに横になったかと思うとあっという間に眠ってしまった。
は夜に露伴のベッドを借りて休ませてもらったが、とうの露伴は昨日の夜を船から連れ出し、そのあともずっと漫画を描いていたから、眠っていなかったに違いない。休む間もなく昼の二件の来客もあった。ふたつとも自分が絡んだ事柄だ。
音をたてないように気を付けながら、南向きの窓に”柔らかな御簾”を引いた。
一階は不思議と夏でも涼しい風が吹き込むので二階の寝室から毛布をとってきて、眠る露伴にそうっとかけた。
人形の大きさだった時分にはできなかった芸当だ。
うす衣でさえぎられた日差しが心地よい。
普段の険しさの消えた寝顔にくすりと笑う。
見渡した静けさに 卒然、肌に寒さがかけあがりソファの横では自分の腕をかき抱いた。






固くなっていた屋根裏の窓を開くのにようやく成功した。
夏の夕方の風がなかへ吹き込んで空気が入れ替わる。
杜王町に住む人々の屋根が茜色に照らし出されていた。おぞましい出来事はきっとあの海のあのあたりで自分に起きたのだと思うが、それが夢だったのではないか思えるほど、屋根裏から見える町並みは穏やかで美しい。
明滅する悪寒にかぶりを振り、我知らずまた抱いていた腕を放し、胸を張り、「よし」とばかりは袖をまくった。






「なんだ、掃除してたのか」

杜王町がとっぷり夜につかり家々の窓の灯も消えはじめた頃、屋根裏の床にあいた正方形の出入口から露伴が顔を出した。
部屋を見回す露伴の髪はすこし濡れている。湯上りだ。
「ちょうど済みましてございます」
「へえ、きれいになるもんだ。掃除機もなしで」
掃除機とやらがなにかわからないは一枚のタオルを何度も洗って屋根裏をくまなく雑巾がけしたところだった。いまは柱も床も壁もピカピカに光っている。
「勝手に布巾をお借りしてしまって」
「別に。タオルの一枚や二枚」
頭をぶつけないように気を付けながら露伴が屋根裏に上り込み、あぐらをかいた。
出窓から見える杜王町は夜だが、部屋は少し明るい。はずっと月明かりだと思っていたが、つい先ほど街灯の存在に気付いた。あたりは静かだ。耳をすますと虫の声と波の音がする。

は露伴に向かい、居住まいを正した。
つ、と指をつく。

「露伴様、改めまして本当に有り難う存じます。拾っていただき、船から逃れるのにも、詳しくは存じませぬが露伴様のお力添えあってこそのことと、そう思うております」
「いいって」
「おそろしいことがあっても露伴様のこみっくを見れば心が励まされました。加えて、明日は“かめゆーでぱーと”です。重ね重ねて御礼を」
「いいってば」
「なんと懐の深い」
「まったくだ。でも一方的に苦労ばかりしょいこんだとは思っちゃあいないよ。君をここに住まわせるための金はたんまりもらったし、君ほどへんな存在も珍しい。落ち着いたらいろいろ聞かせてもらうからな。それより今は君も風呂へ行けよ。ほこりまみれの部屋を掃除したんだ。洗ってきれいにするといい」
感激し、はわきあがる感情をなんとか胸の内にとどめた声で「…はい、露伴さま」と顔を伏せ、上げたときにはできる限りの笑顔を作った。

正方形の出入口からはしごをおりるに「そういえば」と声がかかる。

露伴は窓から外を眺めて夜風に髪を揺らす。
には彼がどんな表情をしているのかは見えなかった。

「あの毛布は君か」

はいと言えばいいのに、問われてはじめては恥ずかしくなった。
「まあ、君じゃなかったら幽霊だな」
独り言のように露伴が言う。
「…幽霊、かと。いい幽霊です」
「ああ、幽霊はいい奴だよな」
自分でも何を言っているのかわからなくなり、は露伴が振り返る前にと、湯殿ことバスルームへ向かった足早に向かった。






最後のほうでなぜかしどろもどろになって逃げるようにバスルームに入って行った背を、壁の影から見送って、露伴はついに笑いをこらえきれなくなった。
シャワーは水しか出ないようにしておいた。
風呂にもわざわざ冷たい水をはりなおしてやった。
浴びた瞬間の「きゃあ!」という声を楽しみに、岸辺露伴はバスルームへ続く脱衣所の扉へべったりと耳を押しあてる。「どうした!?」とか言って駆けつけバスルームの中のをすりガラスごしに恥ずかしがらせるブービートラップも予定している。

この岸辺露伴を安全牌とナメきったこと、その全身全霊で後悔するがいいっ!

水の音が聞こえ始めた。
きゃあ来い。
きゃあ来い。

「…」
「…」
「…」
「…」
「…」
「…?」

いつまでも来ない「きゃあ」を待って露伴はいっそう扉に耳を押し付ける。
「あの、露伴様、いらっしゃいますか」
来た!とばかりバスルームに飛び込み、露伴はまずはすりガラスには目を向けず、コホンと紳士の咳払いをした。よい声で
「なんだ?」
「畏れながら使い方がわからず。こちらで教えていただけないでしょうか」
「な、ナニ!?」
露伴の声に動揺がはしる。
いま、ぼくに風呂へ入れと言ったか?がいる風呂で、教えろと。これは、まさか誘われているのか。なにかの罠か。いや、あるいはの時代にはそれが普通だったのか?風呂は全部混浴、とか。まさかそんなことはあるまいが、だがしかし古き時代、色事は高尚な趣味として認められていたと聞いたこともある。いや、この際の貞操観念などどうでもいい。据え膳食わぬは男の恥だ。絶対そうだ。
「…入るぞ」
ごくりと喉が鳴る。
すりガラスのドアをそっと、しかし確実に押し開いた。
が立っている。
目を見張る。
内股の素足をしどけなく水で濡らしている。
白い足元からゆっくりと舐めるように視線をあげていき
露伴はついに

服を着たまま突っ立っているを見て炭化した。

「なにやってんだよ君は…ホント、何やってんだよ…」
「申し訳ありません。湯船を洗おうと水の栓は抜けたのですが、ここが下からしかでなくなってしまって」
下にさげると下の蛇口から、上にあげるとシャワーから水がでるつまみを何度か下げて、昨日は上からでたはずのお湯が下からしか、しかも水しか出ないのだとはいたく困った様子で状況を説明した。
しゃがみこみ、何度もつまみをさげるにふつふつと怒りが込み上げる。
を押しのけた。
「この、バカ女!これを“上”にやるんだギャア!」
訛りみたいな語尾がついたのは露伴の頭上に冷水のシャワーが降り注いだからだった。
蛇口の前から押しのけられてバスルームの床に尻もちをついていたにも露伴の髪から落ちる水がぼたぼたと落ちた。
「…」
岸辺露伴は、無言でつまみを真ん中へ戻す。
ぽかんと見上げていたの口から短い音がもれた。
ぎろりとにらんだ露伴に合わせて顔を下に向ける。本人は笑ってはいけないと思っているようで、昨夜とは違った意味で薄い背を震わせ、必死に声をこらえていると見える。
不気味なほど静かな動作で露伴はシャワーヘッドをへ向けて構え、つまみを叩き上げた。一斉放射に小さい悲鳴をあげ狭いバスルームの床で尻もちついたまま逃げまどうを執拗に冷水シャワーで追いかける。

バスルームどころか脱衣所と洗濯機まで水浸しにしたところで「どうだ!」と叫びシャワーを止めると、重たい前髪をかき分けたは童女のようにニコニコと楽しそうに笑っていた。

「遊んでやってるわけじゃねえよ!」



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