「露伴様っ」

高層階用ラウンジで姿を見つけるとは犬のように駆け寄って来た。
が、露伴の装いと髪型が心なしかズタボロになっているのを認め、白い服に大きなキスマークをいくつもつけているのを見ると、寄ってくるのをためらった。承太郎が立ち上がる。
「災難だったようだな」
宿泊先ホテルなどなかった。
明日のインタビューのためにホテルの一室を午前中だけ借りました、が伝言ゲームの間に宿泊先のホテルを予約しましたに変わっていったらしい。
そのうえ夏休みでホテルはどこも満室、今から泊まれるホテルなどカプセルホテルくらいしかなかったが、岸辺露伴の気質がそれを拒んだ。
「お世話に、なります」
顔をひきつらせながら承太郎にぼそぼそと礼を述べる。
もともとツインルームであるし、やたらと承太郎に気を使うホテルの支配人だから二つ返事で人数の追加を承知した。

ゲストルームへ向かう廊下で向けられたのまなざしにはタブーに触れるような畏れの色があった。
「お怪我はありませんか」
「致命傷はまぬがれた」
尻の、というのはには言わなくてよいことだ。
「ご無事でようございました。お部屋をご覧になったらきっと元気がでますわ。とてもきれいなのです。それにベッドはふたつありますので、どうぞお好きなほうをお使いください。わたくしは余ったほうで結構ですので」
露伴には承太郎の視線が痛い。
「君なあ、割り振りは女の子の君が一人で、ぼくと承太郎さんが同じ部屋に決まってるだろ。…なにびっくりしてるんだよ、当然だろ」



「なついているな」
露伴はルームサービスのビーフストロガノフを口に入れる直前で取り落した。
先に食事を済ませていた承太郎はペーパーバックの洋書を読んでいたがふとそんなことを口走った。
共通の話題はないし、そもそも相手が無口な承太郎では会話をしようという気すら起らない。ルームサービスで運び込まれたテーブルには2脚の椅子がついていたわけだが、当然向かいは空席で、承太郎はワークデスクに備え付けられた黒革のチェアにかけている。
「…たいてい誰にでもああでしょう」
「そうか」
「…」
「…」
なんだったんだ、今の会話は。
気にするのはよして露伴は食事を続けた。オカマちゃんたちにベタベタ触られた体はルームサービスを待つ間にさっさと洗ってさっぱりした。いつもなら全裸かパンツ一丁かバスローブでワインでも転がすところだが、承太郎がいてはそうもいかず、明日用の着替えを着こんでいる。
承太郎のほうは相変わらずで、帽子も取りやしない。
お互い気ままにいられないのはこちらが押しかけてきたせいもあるので、露伴といえども文句は言えないところだ。
露伴は沈黙を不快に感じないよう、なるべく長くゆっくりと食事を味わうようにした。
いまの会話が幻聴だったかのように静まり返った空間にホテルの電話の音が響く。
近かった承太郎が「はい」と低く出た。
「………かまわない」
2単語だけで受話器を置いた。全く会話の中身が読み取れない。
「なにかありましたか」
怪訝に思って尋ねたとき、後ろでコンコン、とノックの音がした。
男部屋にはいってきたはバスローブ姿で露伴は二度目ビーフストロガノフのビーフを取り落した。
「服着ろよバカ!」と立ち上がり、承太郎の視線をさえぎる位置に入る。
はにっこりと笑って「これは“ばすろーぶ”といって湯上りに着る浴衣のようなものなのです」とホテルマンからうけた説明を親切心から露伴に紹介した。
言いたいことはいろいろあったが、成人男性でも使えるサイズのバスローブは器用にはしょって着付けられており、浴衣よりもずっと着衣感のある見た目に仕上がっていた。露伴は言いたいことをこらえて椅子に座りなおした。
「で、何しに来たんだよ」
「承太郎様に“宿題”を見ていただきに」
承太郎のところへノートを持っていき、広げて渡した。
「座って待ってな」
「それでなんでこっち来るんだよ。あっちのソファが空いてるだろ。…ああ、もういい。どこでも好きなとこ座ってりゃあいいだろ」
向かいに余っていた椅子に座ったはさらさらのテーブルクロスを撫でた。
「…このテーブルはわたくしに貸していただいた部屋にはありませんでした」
「ルームサービスのだからな」
「ルーム、サービス」
「ルームサービスってのは」
「あ、おっしゃらないでくださいまし」
「なんで」
「宿題に調べたいのです」
食事を続ける露伴の向かいでは、その日にわからなかった言葉を辞書で調べて英語の文章にするのが毎日の宿題なのだと嬉しそうに語った。
「目標は一日20個以上、です。10個以下だとアカテンなのです」
「…ああ、そう」

承太郎がデスクからを呼んだ。「はい」とすぐさま応じ、わき目も振らずかけつける。
「ここは聞こえにくいが、書くときはsを入れる。He makes、他はあっている」
「Thank you」
「No problem」



こちらを振り返る。
「ちょっとそこに座れ」
ノートを抱いて、露伴に指さされたとおりカーテンのすぐそばの床に座った。
露伴は残っていた食事を一気に平らげると、頬袋をふくらましたままカバンからスケッチブックを取り出し、床に座っているのノートを取り上げ、足をひっぱった。慌てて裾をおさえるをおかまいなしに露伴は自分の思い描く角度でにポーズをとらせる。
「腿はそろえて、膝からひらいて見えるように、顔は、そうだな夜景でも見ていろ」
カーテンを開くと、大都会の夜がさしこむ。

膝から下をあらわにした格好にもじもじしていたがふと静かになった。

夜に穴あけたような月がある。

露伴はがかけていた椅子の向きを変えて座った。そらした白い喉から頬にかけてのなめらかな線を写し取る。瞳は見えず月へむかう睫だけ見えるのがいい。
あっという間に二枚をめくり、三枚目を描こうとしたとき鉛筆の芯が木軸と同じ高さにまで磨り減って描けず、描きはじめから一本につながっていた露伴の意識がそこではじめてもどかしく途切れた。
芯のとがった鉛筆が1ダース入ったペンケースごと持ってきて同じ椅子に腰かけたとき、がちっとも動かないことに気が付いた。それに承太郎も同じ部屋にいるのだ。承太郎は背を向けて黒革のチェアで本を読んでいる。露伴の集中力は霧散した。
「寝てるのか?」
「…いいえ」
「そんな恰好をしていると首がつるぞ」
「もうお仕舞いですか」
「あと1枚描いたらな。ポーズは適当でいい」
はこちらに背を向けたまま大きなガラス窓のそばまでいき、横座りをした。
窓にぴたりと右手の平をあて、そしてやっぱり夜空を見上げて動かなくなった。
そういうポーズだ。
露伴は後姿を目でなぞる。
「フン、使い古された構図だな。月から帰って来いと指令でも受けたかよ、かぐや姫」

「いいえ」

ふふ、と笑う声がした。
窓にうっすら映る顔も笑っている。
悲しげに。

気に入らない線だ。

「ストップ。全然だめだ、変えよう。こっち向いてソファに座れ。それで氷の微笑みたいに足を組むんだ、尻がギリギリ見えるくらいな」
「先生」
「わかってますよ。尻はギリギリ見えないくらいだ、わかったな」






どうにも筆の乗らない最後の一枚を描きおえた。
うまくいかないのは、がうとうとし始めて何度もソファの上で首を揺らしたからだ。いましがた本格的に寝こけて、気の抜けた寝顔を描いて筆をおさめた。
「終わったぞ、起きろ」
ソファを蹴って揺らす。
は起きなかった。
スケッチブックでヒタヒタと頬をたたく。
「君の部屋はあっちだろ、起きろったら」
目がうっすら開き、そして閉じた。
ヘブンズ・ドアーで書いてやろうと腕を振り上げると、コートを取り払った承太郎の腕がぬうっと横から割り込んだ。
「運ぼう」
は、男すら憧れる承太郎の胸に抱かれ、なかった。
二つ折りで小脇に抱えられるという露伴すら憐れむ恰好で連行され、ドア開け係として一応露伴も同行した。案の定はカードキーを中に置き忘れていたが、何かあった時のために一部屋に2枚ずつあるカードキーの一枚をあらかじめ交換しておいたそうで、となりの部屋に入ることができた。
(何かあったときのためにって、その交換のおかげで何か起きたらどうしようとか考えないのかこいつは)とは承太郎の前なので黙っておいた。
いつのまにかベッドメイクの入っていたベッドにをおさめ、毛布を肩までかけてやる承太郎の姿に既婚、一児の父というワードを露伴は久しぶりに思い出した。
所帯持ちならなにか起きる可能性は低い。杞憂だ。 しかし所帯持ちとはいえまだ枯れるような年齢ではない男性なのだから、やはり何か起こる可能性は否定できないし、は人外といっても一応は女の体つきなわけだし、一概に杞憂とも

「先生」
「へい」

不覚、もんもんとしていた露伴は急な呼びかけにうっかり発音を間違えた。

「少し飲むか」

不覚、岸辺露伴はうっかり乙女のように胸を突かれた。



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