「海だー!」

「億泰、まずパラソルたてるぞー」
「まったく、暑いんだからさっさと立てろよ」
億泰が海へ駆け、荷物を抱えた仗助は重たいパラソルを砂浜にざくりと突き立て、露伴は腕組みして麦わらの角度をなおす。

8月2日金曜日、快晴。

「手伝えよなー」
「はん」
こんにゃろう。
仗助ひとり黙々と設営作業を続けた。
露伴も来ると言い出した時には驚いたが、それでを連れ出していいなら背に腹はかえられなかった。
海外セレブみたいな大きなサングラスをした、世界一海水浴の似合わないこの男が、自分たちのようにTシャツハーパンで来ることはないだろうなという予想はあったものの、袖を折った白シャツにタイトな黄緑のパンツスタイルと、色こそ奇抜だけれど普段よりは普通の人に近い装いでやってきた。ただし泳ぐ気無し。
「しかたねーなー。よっ、と」
海の街育ちの仗助だ。シートを敷き、シートが影に入るようにパラソルを立てるのも慣れている。
手伝うそぶりもなく、露伴はサングラスを下にずらして、
「あっちはイモ洗いだな」と汚らわしいものでも見るように、岩場を挟んでとなり(といってもだいぶ距離があるが)の海を見た。
対してこちらの砂浜はむこうよりはぐっと小さく、海の家もないけれど、貸切状態だ。
「むこうは市の海水浴場スから。こっちは私有地」
「おまえん家の?」
「まさかー。うちのじいちゃんの幼馴染ッスよ。源一郎じいちゃん家の庭に、行くよーって大声で言って“イチイチ聞ぐなー”って返ったら通行証ゲット」
「フン、贅沢な」
「地元民っスから。よし、できた」
パラソルがいい角度で固定され、仗助は手の砂をはらった。

「仗助ぇー!」

そこへ億泰がずいぶん慌てた様子で駆け戻ってきた。
「どしたよー」
「カニぃ!」
小さなカニを手のひらにのせて仗助に見せた。
億泰は去年越してきたばかりだし、小さい頃からいままで海水浴なんて遠出の遊びには出られない事情もあった。さらに去年は兄の死もあり、表面上明るいがもろ手を振って楽しむとはいかなかっただろう。その点はいたいほどわかっている。仗助は無邪気に笑う億泰の両肩にやさしく手を置き、足を払った。
「でもそれと手伝わなかったことは別な」
億泰は灼熱の砂の上に倒れこみ、カニは無事逃げ出してめでたしめでたしだ。
「男同士でじゃれるなよ暑苦しい」
いつのまにかパラソルの下のシートを陣取っていた露伴が言う。
こんにゃろう。
「ハ!そうだ、女子どうした!?康一が更衣室から連れてくるはずだろ」
熱い熱いともがいていた億泰がパっと立ち上がり、きょろきょろとあたりを見渡した。

「あ、いたいたー!おーい!」

康一の声だ。
億泰だけでなく、仗助も露伴も同じ糸でつながれた人形みたいにピッと声のほうを向いた。
待ちわびた女子の登場である。
由花子は黒地に南国の花があしらわれた、セクシービキニに身を包…こぼれんばかりでほぼ包まれていない。胸の中央に光る金のホルダーと同じ色の二連ブレスレットからこの日にかけた意気込みがうかがい知れる。この17歳の健康的な肉体を前に、康一の顔は溶けたアイスみたいにデレデレしている。
は夏用の大きめパーカーを着て、前のジッパーを固く閉ざしていた。
貸さなきゃよかった、と露伴が小さく言ったのを仗助は聞き逃さなかった。
「うひょー!由花子ぉー!さぁーん!!」
億泰は素直に喜び飛び跳ねる。
仗助はにやけそうな口を手で押さえつけた。大きめパーカーが下の三角までを絶妙に隠しており、もしやあの下はなにも着ていないのではと、期待と妄想をかきたてられる。
「妙な気起こすなよ」
睨みあげる露伴と目があった。
「っ別に、おれ、そういうんじゃねえッスから。これは男なら普通の反応っしょ」
「フン」
「つーか、なんで露伴先生まで来てんスか」
「監視」
「変態」
「おい億泰知ってるかこいつこの前ぼくの家の前で」「わー!わー!わー!」
「おーっし、泳ぐぞー!おれいっちばーん」
露伴の話なんて聞いちゃいない。
いつのまにか海パン一丁になっていた億泰は仗助が持っていた浮き輪を奪いとって海へ駆けだした。
「待ってよ億泰くん」と康一も後を追いかける。となれば由花子もくっついて海に突っ込んでいった。



は出遅れてパラソルのそばでなかなかジッパーを下ろせないでいる。
水着は昨日由花子と買いにいったそうだから、露伴も見るのは初めてだ。
「さっさと脱げよ」
急かすとこっちに背を向けたまま耳まで赤くしている。
一つに結ってやって現れたうなじが、
まあまあ、
うん
うん
さんも行こう」
鼻持ちならないさわやかなセリフを吐き、仗助は着ていたTシャツを頭から抜いた。日本人離れしたイイ体を披露されのほうが目のやり場に困っていたが腹を括り、も仗助に倣ってえいやとばかりパーカーのジッパーをおろした。
の性格上、布多めのワンピースで来るだろうと思ったが、グラデーションのさわやかなホルタービキニだった。
露伴の視線とほぼ同じ位置に、善良な尻がある。
横から、ぷしゅうとビーチボールから空気が抜ける音がして露伴は我に返った。
「グレート…」
うわごとのようにつぶやいた仗助に、足元の砂を跳ね上げた。



行ってまいります、と空条承太郎の英語教室へ行く時と同じように言って、サンダルを脱いだ砂浜の熱さに飛び跳ね、仗助と一緒に海へ入って行った。そして溺れた。
仗助に手を引いてもらってバタ足の練習をし、億泰が横から仗助に代われ代われとせがむので、仗助は「しかたねーなー」と億泰の手を引いてバタ足の練習をしてやり、「なんか違う」とつまらんコントを繰り広げている。
はツボにはいったらしく、薄い腹っぺたを押さえて笑っている。
あの笑い顔は、研究船へ行く前の晩、露伴が絵を描いてやった日に見た。
「…」
砂浜は蒸し風呂のような熱気に満ちていて磯くさく、風が吹くと少しだけ涼しい。露伴にはひどく不快だった。
露伴はパラソルの下であおむけにたおれ、顔に文庫本をかぶせた。
「ビーチバレーを国技に!」
アホの億泰の声がする。
「うるせえなあ…」
少し寝ていた隙に膝まで砂で埋められていてキレた。






仗助は自慢のリーゼントを大いに乱し、億泰はクラゲに刺された、死ぬ、死ぬと騒いでいる。はもう水着の布の少なさもすっかり忘れているようだった。
「先生、ぼくたちラーメン食べてきますけどどうしますか」
「こんな暑いのによく食べられるな。ぼくはいいよ」
、あなたも来る?」
露伴と一瞬目があう。
「ここで待っています」

隣のビーチへいくため国道へ続く階段を上がってゆく高校生たちのうち、仗助だけは最後までちらちらとこちらを振り返っていた。
は露伴の横で体育座りをしている。足を伸ばして座る露伴の位置から、丸みをおびて浮き出た背骨の線が見える。このやわらかそうに見える体のうちには何もないのだそうだ。転んで手を怪我したときに出た赤い血はインクと同じ成分で、エコーで中を調べてもインクがこの体に詰まっている様子はないのに、注射針がこれの体内から吸い込む体液はどうやってもインクなのだという。
この胸も、そのへそも、あの尻も。
髪の水がほそい首筋を伝って落ちてゆき、息するふうの胸の間に滑りこんだ。
「ふやけたか、紙女」
は自分の手のひらを見つめた。指先がふやけて波打っている。
それは人間の肌の“ふやける”であって、露伴はの成分を考慮してもう少し露骨な意味合いの嫌味をいったつもりだった。そういうことではないと今からこと細かに説明するのは表現者のプライドが許さない。
正面を向くと、海を臨む視界はさして広くないが、奥行きは消失点が地平線まで遠く続く。
仗助たちについて行かなかったは、あらかた、飲み食いしない自分の体の奇妙さでも久しぶりに思い出したのだろう。

「ずいぶん派手な水着を選んだな」

ため息をひとつ落として話を切り替える。ぎくりと音を聞いた気がした。
「や、やはりそうでしょうか」
いそいそパーカーを着こみ、服に首をうずめた。
山岸由花子にすすめられたものを買ったのだろう。そういえばブラジャーの柄も由花子らしきエッセンスが入っていた。
「君は由花子の言いなりだな」
「言いなりというわけではありません」
「ふうん?」
「この水着は、形はその…少々露わですが、色はわたくしが選びましてございます」

「けれど、尊敬はいたしております。由花子様はまっすぐな志と、ご自身の考え方をもっておいでです。小さかった頃のわたくしは普通でしたら気味悪がって、厭われてしようのないところを、由花子様はそうはなさいませんでした。湯あみをさせてくださり、着替えをくださいました。きゅうに大きくなったときもそうでした。わたくしもまた、良しと悪しをわたくし自身の心で定めるのだと、わたくしもそうしたいと思いました」
「重い奴だな」
「空っぽでいるのは怖かったのです」
カラと微笑んだように見えた。
「尊いお人柄は由花子様だけではありません。康一様は体は大きくありませんが、心の大きな方です」
「それは同意だ」
「いつも周りのことに気を配って気の優しいふうであらせられますのに、言うべきところは厳しいことをおっしゃいます。仗助様と露伴様の諍いを諌めるのはいつだって康一様ですもの」
「あれは仗助が悪い」
「そういうふうにおっしゃる露伴様とも仲良く接してくださるお方は、康一様よりほか見たことがありません。きっとすごい方です」
「どさくさで人をけなすんじゃあない」
「億泰様は楽しい方」
さっきまでの楽しい記憶がぶりかえしたのか、フフッといたずらしたみたいに笑った。
「仗助様は」
「あいつの話なんて聞きたくないね」
「…」
「ぼくは」
「え」
「お世辞は嫌いだが褒められるのはそうでもない。褒められた礼をいうのは嫌いだけど」
「露伴様は…」

「…」を引きずっては天を仰いだ。
空は晴れわたり、海の上に竜の巣みたいな雲が見える。
肌をなでたこの風は夏だけに吹く。
寄せては返す波の音に時折、となりのビーチの迷子案内がかすかにまじった。

「…絵が、上手、です」
「これだけ考えてそれだけかっ」
「ふふ」
じょうずに冗談を言うようになったのは連中の影響だろう。
「真面目に申します」
露伴はそっぽ向く。
「命を削るように漫画を描く露伴様はかっこいいです。本当に命が削られてしまわないかと心配です。けれど、ご無理なさらずにと軽々しく申せませぬのは、露伴様が本当に楽しそうになさるときは絵を描いているときだと、そう感じるからでございます、露伴様が命を賭して描くものが人々の目に触れるとき、触れたものの心を熱く打つからでございます。わたくしもまた、あなたさまの漫画にどれほど勇気をもらったことか。そしてお言葉と振る舞いからも」
人間ならば心臓がある場所に手のひらで触れた。
「このあやかしものの尊厳の源に、ピンクダークの少年と岸辺露伴の御名を結びますことをお許しください」
露伴は途中からマズイものを食べた顔をしている。
「…君、暑苦しいな」
はおしりの位置を露伴から少し離した。
「そうじゃない」
ずいぶん小さくつぶやいた声は波の音と空の大きな青に吸い込まれて消えた。
海に方へ向かえば、青空に竜の巣みたいな入道雲、
背の方へ向かえば、背に目をつけないかぎり気付くべくもないが、二人きりにしてやるものかと急いでラーメンを食べてむせて帰ってきた仗助がひとり、国道に立ち尽くしていた。



<<  >>