8月13日 火曜日
テレビの天気予報は38度の猛暑になると告げた。

露伴は昨日のうちに今週描くべきところまで仕事を終えたと言っていた。東京で二日目に着たワンピースに身を包み、リビングで洗濯物を畳みながら、今日はこのまま穏やかな日になるだろうとは思った。その矢先、露伴がリビングの入口を玄関方向へ横切った。
「おでかけですか」
「ああ」
靴を履く背中がいう。
「…」
「お帰りは何時ごろですか。お風呂を用意します」
「いいよ。鍵しておいてくれ。それじゃあ」
「いってらっしゃいませ」を言う途中で扉はを断ち切るように閉ざされた。

カメラを持っていなかった。
スケッチブックも持っていなかった。
玄関わきの定位置に、家と車とバイクの鍵がついた革のキーケースが置かれたままだ。
“よほど重要ごとでもない限り絶対外に出たくないって思うけど”
「重要なこと」
ぽつりつぶやき扉に背を向ける。
リビングへ、戻らなかった。

外に行くなとはいわない。ただし、出るなら昼間、顔が見えないように帽子を深くかぶること。追跡用の携帯端末を忘れるな。
はそのとおりに速やかに装備を整え、玄関の鍵を外からかけた。
落とさないように鍵の入ったワンピースのポケットに手を重ね、もう片方の手には吹き流しの飾りが垂れる黒い携帯端末を握りしめて、熱した鉄板のようなアスファルトに飛び出した。



短冊をかけた駅前まで行ったが知る人の姿はどこにも見当たらない。
通いなれた杜王グランドホテルまでの道と違って、人も車も多い。
つい昨日、仗助と億泰と三人でこのあたりを歩き、その時はすんなりと歩けたのにとは思い返す。二人はなにげない会話をしながらもが歩きやすいように先導してくれていたのに違いない。
クラクションの音に肩が跳ねる。
駅へ向かう歩行者信号は赤信号だ。慌てて歩道に引っ込むと信号待ちをする人の腕がぶつかった。
舌打ちが聞こえた。
信号待ちの人だかりから冷ややかな視線が送られているのを感じる。

間違った。

なぜこんな悪趣味な真似をしてしまったのか。急に頭が冷え、は身をひるがえした。
混雑をぬけると、少し先の店先に緑色のぎざぎざのヘアバンドを見つけた。もうすべて安心だ。
「ろは…」
声が止まり、足が止まる。
店から出てきた露伴は花束を抱えていた。
こちらへ来る。
信号が変わって流れ出した人々に紛れて、は足早に横断歩道を渡った。駅改札の人の波間にさらに隠れ、無い心臓がどうしてか脈打つ。
「ちょっとすみません、あなた切符買わないんですか?」
「え」
「買わないならどいてよ。並んでるんだから」
「も、申し訳あ」
後ろにあった機械の前からずれた拍子に、背広を着た男にぶつかった。
「申し訳ありません」
「…大丈夫?」
にっこり顔っている。もつられてひきつった笑い顔をし、会釈して離れようとした。が、離れない。
二の腕を必要以上と思う力で握られている。
どうしてこんなに暑いのに、ねずみ色の背広を着こんでいるのか。
カバンも持っていない。
「すみません」と言ってもう一度離れようとしたが腕が掴まれたままだ。男の脂ぎった顔が間近になって無遠慮に顔を覗き込まれているのに気付くと総毛立ち、は男の胸をドンと押した。
拍子に落ちた帽子を拾い、線路にかかる陸橋を駆け上がる。
振り返ると、背広の男が階段の下からこちらを見上げている。
確実によくないものを感じとり、陸橋を走って渡り、階段を下りた。
おそるおそる見上げた階段の上に、背広の足が見えた瞬間それがあの男ともわからないのにぶどうヶ丘高校があった気がする方向へ駆けだしていた。坂を上って学校まで行ったなら飼育小屋へ毎日通う未起隆がいるかもしれない。そう思ったが、右にも正面にも左にも、なだらかなうねる坂道が続いていてそれぞれどこへ続くのか見当もつかない。
は後ろを振り返った。
「…」
誰もいない。
これ以上露伴の家から離れた場所へ行くのは二度と戻れなくなるようで恐ろしく、来た道を戻りだした。
こういうときに携帯端末のGPSが役に立つが、これを器用に扱うだけの知識がつい一か月半間前まで生きていた覚えのないには土台無理な話だった。
駅まで戻ってきた時、そこには背広の男の姿はなかった。そのかわり駅の左手にながく伸びる坂の上にほんの小さく露伴の後姿を見て、は心底ほっとした。
声をかけるには遠い。
もうすこし近づいてから声をかけようと駆け足したが、丘は何連にもなだらかなコブを作っていて、遠目で見たよりもずっと露伴との距離は離れていた。ちっとも追いつかず、それどころかどんどん遠ざかり、ついに見えなくなった。
「…はっ、…は」
息がきれてきても、坂の上を見つめたまま足は自然と動いた。

おかしい

どうしてこんな丸みをおびた穏やかな丘の風景のなかで焦ってばかりいるのか。

なにかおかしい

いま自分はとてもおかしなことをしている

丘のこぶのなかに石が集合する地帯がいくつかある。
上に行けばいくほど石の密集率は高くなってゆくと気づいた。
霊園だ。
はじめてみる景色でも冷たい石の整列はそういう場所だと知っている。



それより先に上り坂はなかった。
下り坂に露伴の姿はなく、左に古びた門がある。

「おや、お嬢さん。ご家族とはぐれてしまったのかな?」






お盆を迎え、国見峠霊園は一日中忙しい。
と言いたいところだが、案外午後は閑散としている。
比較的涼しい午前中に墓参りは済ませて、暑い午後はカメユーデパートのレストラン街でお食事でもしましょうと、そういう人が多いからだ。
その大勢の傾向などまったく気にしないという様子で、岸辺露伴は16時過ぎに霊園にやってきた。おきて破りの色とりどりの花束を抱えて。
住職自身、露伴の漫画のファンということもありその姿はしっかりと覚えている。
露伴が水を汲んで墓地に入って行ったほんの数分あとに、霊園の入口に白いワンピースを着た少女が立っているのを見つけた。
住職なのに一瞬幽霊かと思った。
敷居をまたごうともせず、立ち尽くしたままの姿が心細く見えて、住職は少女に声をかけた。
「おや、お嬢さん。ご家族とはぐれてしまったのかな?」
かわいいワンピースに、新撰組と書かれた帽子をかぶっているのには面食らったが、帽子のつばの下にある顔はこの世のものとは思われないほどに美しかった。
住職は本物かもと思い、数珠を握る手に力を込める。
足はちゃんとある。なぜか浴衣にあわせるような草履をはいているが。

「…人を、探しておりました」

すこし息が乱れていた。
無理もない、この炎天下にこの靴であの坂を上って来たなら息の一つも乱れるだろう。そうそう。
「そうでしたか。お探しなのはお墓参りに来たご家族ですかな。檀家の方なら苗字がわかれば場所までご案内できるでしょう。この霊園は広いですから」
「…」
言いよどむ。
そのあとに、唇が小さく動いた。
「岸辺露伴様です」
「おお、露伴くんか!彼ならいま大切な人のお墓へ参っているところじゃよ。杉本鈴美さんといってね。露伴くんの命の恩人で…」
いや待てよ
住職は案内しかけた手を袖に引っ込める。
この娘、“露伴様”と言ったか。家族や親戚ではない。売れっ子漫画家ともなるとこんなかわいいメイドさんを雇えるのか。いやしかしそういう風でもない。とすればファンか。ストーカーという線もある。これはこの住職めが、門番となって引きとめねばならない娘ではなかろうか。ただならぬ様子も、そうよくよく思ってみれば怪しさ満点。
「あー、もし、お嬢さん。つかぬことをお伺いしますが、露伴君とはどういうご関係かな?」
「関係」
少女はまたも言いよどんだ。住職はこれを見逃さず目を光らせ、柔和にたたみかける。
「人には言えないような関係ですかな?なぜ露伴君のあとをつけたりしているのか、詳しくお聞かせ願えるかな」
ひどく困った様子である。
これは本格的に危険なにおい!警察を呼
「露伴様のお屋敷に、住まわせていただいております」
「…う、ん?んん?」
「軽装で、行先も、お戻りになる時間も黙ってお出になられて、気に…かかり」
同棲相手をストーカーと間違えたことに、住職はここでようやく気付き慄然とした。
今から言いつくろおうにも、いたいけな少女をストーカー扱いして問い詰めて、いまうつむかせているのは誰あろう、御仏につかえる自分の行いのせいである。
「ですがこれはいけないことです。ご住職の言葉で気づかされました。わたくしはなんて馬鹿な行いを」
住職よりもよほどショックを受けているのは少女のほうだった。
大きな瞳をめいっぱい瞠って、一歩、二歩と後退る。
「い、いや、かわいいお嬢さん、これは違うんじゃ、わしが勘違いを」
「もう帰りますので、どうか露伴様にはお伝えにならないで…っ。御仏方の御霊を騒がせたてまつり、申し訳もございません」
「あ、お嬢さん!お待ちなされっ、お嬢さーん!」
来た坂道を、少女は走って下って行った。
老いた足を、人を疑う心をこれほど悔やんだことはない。

その老いた足で必死に精一杯に早足して、住職は「露伴くぅーん!」と叫び、御仏方の御霊安らかな場所を騒がせた。その声はまだ露伴に届かない。
国見峠霊園は広大である。



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