走って下る坂の途中で、竹乃の足は少しずつ速度を緩めた。
峠の霊園まで続く道路はきれいに舗装されているが、車は竹乃がのぼる間と、下る間に二台しか通らなかった。
下りゆく遠くを見るとぽつぽつと三角屋根の家が見える。
煙突から煙があがる家もあるが、まだしばらくは影を作るものがない。
道路は露伴が目玉焼きを作るときのフライパンのようにじりじりと音をたてている気がした。
歩行者用道路の横には竹乃の背丈ほどのフェンスがありその向こうはすぐ墓石が並んでいる。ふと立ち止まり、並ぶ墓石を見渡すが人の姿は見えなかった。振り返っても陽炎ばかりが揺れている。
足元を見たまま、竹乃の足は再び歩き出した。
照りつける無人の下り坂をどれだけ行っただろう。
道のさきにようやく一人見た。
ねずみ色の背広の男だ
坂をのぼってくる。
足を止めず、竹乃はふかく下を向いた。
帽子で顔に影を作る。すれ違う前に、逆の歩道に道路を渡ろう。それも、唐突に見えないようにゆっくりと、逆側へ。そこからは早足で。
背広の男が道路を急に横切った。
こちらへ来る。
口をひらいて息をして
早足に
背後から肩を掴まれ震撼した。
岸辺露伴は状況を飲み込めない。
住職から「同棲相手を修羅場にしてしまったよ露伴くん!」と泣きつかれ、よくわからないことをそのほかにもずらずら言われたが、どうも竹乃がすぐそこまで来ていたらしい。
ケータイを鳴らしたが出ず、位置情報を確認してほしいと承太郎経由で財団に頼むと、すぐ近くにいるという返答が来た。行きは原稿執筆でシコった尻の運動不足解消がてら歩いてきたが、耐えがたいほど暑く、帰りはタクシーでも呼んでしまおうと思っていたのに、露伴は肩を怒らせて坂をくだった。
坂を下るあいだも何度も竹乃に電話をかけたがことごとく留守電だ。
留守電に向けて「ケータイを携帯しなきゃ意味ないだろ!」と吐き捨てておいたがそのむなしさもまた苛立ちを増幅させる。ケータイを携帯しないことにかけては露伴も編集部から一定の評価を得ているが。
2分と置くかずもう一度かけた。
星に願いを
露伴は立ち止まる。
端末に最初から登録されていた着信音の中で一番気に入ったと言って、露伴が設定してやった。
その音楽がかげろうたつ坂道の、反対側の歩道から聞こえてきた。
怒り、苛立ってかいた汗が一瞬で冷える。
心臓が早鐘をうちはじめた。
落ちていた端末を拾いあげ
吹き流しの飾りがさがる。
熱中症、搬送、昏倒、女性の衣服を奪う変質者、バラバラ死体、吉良吉影、殺人鬼
坂の先には誰もいない。坂の上にも誰もいない。右と左は墓ばかり。
坂を駆け下りた。
目撃者を探そうにも人っ子ひとりいやしない。ド田舎を呪う。
見えてきたトニオの店に露伴はClosdのプレートを無視して押し入った。
「トニオッ!!この辺でヘンな帽子かぶったヤツをっ」
「恋の病でス」
三人の時が重なる。
ワイングラスの置かれたテーブルに竹乃とトニオがいて、手を握り合っている
重なった数秒間、蝉すら泣き止む沈黙の帳が、隠れた名店、レストラン・トラサルディーにおりた。
背後から肩を掴まれ震撼した。
「おケガはありまセんか?」
頭上から声がし、すぐそこまで来ていた背広の男があっけにとられたように立ち止まっている。
竹乃は喉をそらして真上を見上げようとしたが、肩を抱く手が竹乃の体の向きをくるりと返させ、次の瞬間にはたくましい男の胸に顔を押しつけるように抱きとめられた。
この体格は露伴ではない。しかし仗助や億泰や承太郎の声でもない。慣れた手つきで抱きしめられ、うしろの髪を撫ぜられる。
ようやく見上げる。
「おケガは?」
男のもう一度の問いに、わけもわからないまま「ございません」と唇のはしからこぼした。
「本当に?あんなに高いところから落ちてきたのに?」
「え」
「あなたは天国から落ちてきた天使でシょう?」
「…」
「お盆でスし」
そう言ってあおい目を片方つむって笑う、ひと目で外国人であるとわかる男だった。
男を見上げたきり動けず目をぱちくりしていた竹乃は、いまようやく首をかしげた。
「…人違い、かと」
「オー!そうでしたか。ワタシとしたことが!愛しいprincipessaの顔を天使と見間違えるなんて。…おや、そのほうは誰じゃ」
額に手をあて、大声でなげいた外国人が背広の男をひやりと見おろし急に時代劇じみた言葉を使いだした。
「姫様にADAなすモノは、このトニオがSEIBAIいたしマス!」
最近暴れん坊将軍の再放送を見ていますからワタシのヤイバは強いですよ、と息巻いて、その手に本当に包丁が握られているのを見て竹乃は再び戦慄した。
直後に「怖がらないで。心配ない」と彼の胸元までしか聞こえない小さな声がそう言った。
「おのれクーセーモーノォー!デンチューでござる!デンチューでござる!この刀のワサビにしてくれマス!」
獣のように吼えて包丁を振りかざし、竹乃は目をぎゅっとつむった。
竹乃の体を抱きとめる手はあくまでやさしい。
「…」
「…」
「…もう行きましたよ」
腕が緩み、竹乃を抱きしめていた男が二歩後ろへ下がった。
竹乃はまず振り返り、背広の男がもう見えないほど遠くへ逃げていくのを見た。ほっと胸をなでおろし正面に向き直る。
不思議なところだらけだった。瞳も、白いエプロンも、背の高い帽子も、髪の色も、どこからともなく取り出した包丁も。
気になるすべてをひとまず横へおいて竹乃は深々と頭を下げた。
「助けてくださり、有り難う御座いました」
「うつくしい…」
トニオと名乗った男は左胸に手をあて、信じられないというように首を横にふった。
その瞳は竹乃に釘付けになっている。
「もう演技をなさらなくても」
「演技?演技!?ワタシは本心から、そう思っていマス。あなたほどの美しい女性が悲しげにうつむいて歩いているのを見たら、どうして声をかけずにいられる男がいるでシょう。いや、イナイ」
反語をきれいに最後まで言い切って、恥じるふうもない。
「…向こうから来た男性から助けてくださったのでは」
「男?よくわかりませんが、男なんてあなたの生きるこの世界では風の前のパセリ。あ、パセリもおいしいので残さず食べてくだサイね」
「はあ」
トニオは竹乃の手を大きな手ですくいあげ、よく動く口角を上げ、流麗な動作で道を示した。
「principessa、どうかワタシの店へ。ちょっと騒がしいかもしれませんが」
「あの」
「店のワイングラスたちがあなたのその可憐な唇に触れる権利をあらそって、ケンカしているころでシょうからネ」
そう言って、トニオはまた片目をつむった。
勢いにのまれ、案内された先はすぐそこの家、いや店だった。
中はテーブルが二つしかないが、純白のクロスがかかり、ナイフとフォークがセットされている。
入口で立ち尽くしている竹乃のほうを見つめながら、ずっと椅子を引いて待っているトニオに根負けし、竹乃は一抹の不安を覚えながらも席についてしまった。
てっきり背広の男から親切にも助けてくれたのだと思ったが、このトニオという男の言うことが本気なのか冗談なのか、まじめな竹乃には推し量れなかった。しかし恩は恩だ。無礼で返してはならないと、竹乃はかぶりを振って疑念を消し去る。店に入るときに、彼が入口にかかっていたプレートをOpenからClosedに切り替えたのも、きっと悪意や邪心ではない。
トニオは竹乃の横にひざまずき、「失礼シマす」とまじめな声で言って竹乃の手を取った。
手のひらをさわる大きな手がくすぐったい。
手を見られているだけなのに、穴があくほどまでじっと見られると恥ずかしいような気になった。
「…なにをなさって?」
あおい瞳があがって竹乃とぴったり交わる。
「あなたは、不思議な女性ですね」
首をかしげた。
「ワタシは両手を見れば、その人の体の悪い部分がすべてわかるのデス。デモ、このかわいらしい手のひらからはなにもわからない。ミステリアスな、こんなことは初めてデス」
手の甲にトニオの唇が触れた。
普通ならば、なにすんのよと平手の一発でもする女性もいるだろうが、竹乃には唇をあてるその行為がなんとなく恥ずかしいものとはわかるものの、どれくらい礼を失したものなのかがわからない。この前教わった“チュー”は口と口のはずだ。いにしえの日本では、口づけは愛の表現として明確には定義されていなかったのである。
トニオはワインとグラスを二つとって、厨房から戻ってくると、竹乃の横へ椅子を寄せ、自らもそこに腰かけた。二つのグラスにスパークリングワインが注がれる。
「わからないのはワタシの修行不足デス。だから知りたい。知らなくてはいけません。今夜一晩かけてでも、あなたという女性を、もっと」
異国の笑みを映すグラスを寄せられた竹乃はいろいろに困惑しながらも「飲めないのです」と申し訳なく返した。
トニオはその言葉から、竹乃の込めた純然たる「飲めない」以上の詩的な意味を次々頭の中で見い出して、ふっと悲しげな笑みにかわった。グラスを置き、そのかわり竹乃の手をテーブルの上にすくいあげて置くと、自分の大きな手をその上に重ねた。
「あなたがうつむいていたのは、…そうでしたカ。“食事もワインも喉をとおらない”。うつくしいPrincipessa、あなたの病の名を見つけました」
「トニオッ!!この辺でヘンな帽子かぶったヤツをっ」
「恋の病でス」
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