「露伴様…」

が呆然と立ち上がった。
衣服を奪われたわけでも熱中症で倒れたわけでもバラバラ殺人事件の被害者になったわけでもない。それを視認したとほぼ同時に、今度は冷えていた怒りと苛立ちが一気に再燃する。

「…、おーまーえーなァアア!」

「落ち着いてくだサイ、露伴センセイ」
床を踏み砕くほどの足音で詰め寄ろうとした露伴に、不穏を察したトニオが立ちはだかる。「どけ」と払った手首が返され、露伴はあっという間に関節技をかけられたが、トニオの脇から出た露伴の首はなおもに喰ってかからんと牙をむく。
「人にさんざん心配かけといてイタリア野郎とイチャついてるとはどういうことだよっ」
「オー!露伴先生、それは誤解です。ワタシがあの天使、あ、違った。彼女を一方的に口説き落とそうとしていたのです」
「だいたい君はいつもいつも少し目をはなすとすぐ問題おこしやがってっ」
「ハ!そうです、先生。おいしい料理を食べましょう、そうすればすぐに機嫌もよくなりマス。さあ両手を見せてください」
「関係ないヤツはすっこんでろっ」
露伴は断固として抵抗したが、トニオの予想外の怪力に手のひらを暴かれた。
手を見るときだけトニオの表情は真摯である。そして力が強すぎて露伴はヘブンズ・ドアーを発動させることができない。
「ふむふむ…」
「ふむふむじゃない放せトニオ今すぐ放せ、ぼくはそこの、ビビリのくせに好奇心ばかり一人前な小娘に話があるんだよっ」

「…こ、これはっ!」

トニオが愕然と大声をあげた。
ひどく汗をかき目は泳ぎ不幸な言葉が万に一つもこぼれないよう、口を覆っている。
その手はぶるぶると震えているのが露伴にも伝わってきた。
「な、なんだよ」
関節技から解放されたものの、このリアクションにはさすがの露伴も勢いをそがれる。
一人暮らしの露伴はこの店の常連だ、トニオのスタンド能力の正確さは知っている。
「こんな…ひどい」
トニオの沈痛な面持ちに、「金輪際漫画が描けなくなるほどの大病」そんな言葉が思い浮かび、脳裏にはこれまでしてきた不摂生と無理と無茶と無謀と無頼と無法の数々が、走馬灯となってかけめぐる。
「ハ、ハン!どうせまた、恋の病とか言い出すんだろう。ついこの前初デートに失敗したこいつと違って、ぼくにそんなはぐらかしは通用しないぜ?」
「性格が、悪いデス」



「性格が悪いのは治せないですが、全身の筋肉がコってますね。おや、今日は寝不足じゃない、珍しい」
「最近体の調子はいいんだ」
「おお、さすが露伴センセイは若いですね。疲労困憊でも元気イッパイ。うーんストレスはたまっているようですが」
「どっかの誰かさんのせいでな」
あからさまに目で示すとは静かに目をそらし、手はお膝でおとなしい。
外はまだ蒸し暑く、入ったついでに露伴は早めの夕食をレストラン・トラサルディーでとることにしたのだった。露伴の邪険な視線からかばうようにトニオがまた割って入る。ひざまずき、改めての手をとった。
「そいつの手を見る必要はないぜ」
声に悪の色を重ねる。
「それは食事をとらない、スタンドが生み出した人間じゃないナニカだからな」
トニオの視線が戻ると、は力なく苦笑してうなずいた。これにはトニオもさすがにショックを受けた様子である。
気味悪がって手をはなすかに思われたが、それどころかトニオはの左手を両手で包み込んだので露伴は目をむく。
「かわいいあなたの唇に、ワタシの料理が触れることができないなんて…」
人でないことはどうでもよく、料理を食べてもらえないことだけがとこしえに悲しい。トニオ・トラサルディーは客においしい料理を提供し楽しんでもらうことだけを生きがいにしている男だからだ。一本筋金がはいった生き方をするトニオと彼の料理を露伴は案外気に入っていたりする。
「ああ、ではせめて横になっていてください。かわいそうに、血の気がひいたお顔をなさっていますカラ。立てますか、さあワタシの体にしっかりつかまって、そう。店の二階はワタシの部屋になっていマスからベッドでゆっくりと」
、ここに座っていなさい」






憔悴した様子のを横に置き、レストラン・トラサルディーでのディナーを済ませたころには外はすっかり夜の暗さになっていた。
空には満月を真ん中で切ったような月が遠くに浮かんでいる。
を先にタクシーに乗せたあと、トニオは露伴に向かって無言で手招きし、に近寄ろうとしていた妙な男がいたことを短く伝えた。
そのせいでこんなに落ち込んでいたのかと、露伴の食事中も一言も発しなかった理由を察した。

「勾当台二丁目まで」
発進したタクシーのなかにはラジオの音も音楽もなく、運転手は無口だった。

はただ静かに外を見つめている。
研究船でおぞましい目にあったときにはひっついて離れなかったが、今は露伴のほうを見ようともしない。
怖がっているんじゃあないのか。何をどう感じ、いま何を考えているのか
玄関に入ったら読んでやろうと、タクシーを降りるところまでは確かにそう考えていた。

「待て」

家の中に入るや、足早に階段をあがろうとした足を呼び止める。
明かりをつけないまま露伴は腕を組みドアに背を預けた。
「なにか言いたいことがあるなら言えよ」
「…ご迷惑をおかけして」
「ぼくに迷惑をかけただけでそんなにへこんでいるのか。いつもさんざん迷惑をかけているくせに」
は口ごもった。ホールは二階まで吹き抜けになっていて、天井近くにはあかりとりの窓があるが、月明かりで正確な表情を読み取るにはもう少し近づかなければならない。
露伴はドアから背をはなし、階段のてすりをはさんでのすぐ横に立った。
「ぼくがひとの心を読むのは簡単なことだと知っているな」
「…」
「じゃあ言えよ」
首を横にほんのわずか振ったのは、帽子をとっておろした髪が揺れたのでわかった。
「そうか。読まれたいのか。いいだろう」
手すりの上に左手を伸ばしの顎をつかんだ。上向かせようとすると抵抗する力がかかり、露伴の指は首のやわらかくうすい皮膚を突き破りそうな危うさを感じた。それでも無理やり顔をあげさせ、ペンを持つ形で頬めがけて振りおろ

「わからないのです」

読み取られまいと、は早口にそう言った。
「なに?」
「自分でもどうしてあんなことをしたのか」
「あんなことって」
露伴は左手から力をゆるめた。
露伴の指で首にせき止められていた息があふれ出したように、は声をつまらせた。
きゅうに瞳が潤んだのは羞恥のためと、露伴には見えた。
恋の照れとはほど遠い。

「露伴様のあとをつけたのです」
「…なんで」
「気に、かかって」
「なんで」
「わかりません」
「…ぼくのことが好きなのか?」
「いいえ」
「はっきり言うなよ」
「そんなはずはありません」
「そこまで言うかァ?」

「わたくしは仗助様を好きになるのですから」

星に願いを、が短く響いた。
吹き流しの下がる携帯端末が薄暗い露伴邸に唯一灯る。
東方仗助からのメールだ。



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