夜になるにつれて風はどんどん強くなった。
風が鳴り、雨音が始まり、叩きつける音に変わり、21時30分を過ぎたころには激しい雨と風が103坪を誇る岸辺露伴邸さえも不気味に揺らしはじめた。

は落ち着かない様子で根気強く、露伴も居るリビングにとどまっている。
水曜日の21時からは「となりのトトロ」がやっていたのでそれをかけておいた。トトロは台風情報を伝えるL字放送だ。ちょうどよくか悪くか、となりのトトロの話のなかでも大風で家がぶきとばされやしないかと、メイとサツキが心配している。そこにメイとサツキの父親が突然笑い出した。
みんな笑ってみな。おっかないのは逃げちゃうから、と言って。

笑ってみな、おっかないのは
「…」
ひときわ強烈な突風が壁にぶち当たる音がした。
バババと雨も続く。
は面白いように肩をはねさせた。
笑って
「……わ」
突然家じゅうの電気が落ちた。
「うっ」
「ただの停電だ。こっちは地下ケーブルのほうがあるんだから、待っていたらすぐ回復する」
の返事を聞く間もなく、明かりがついた。
「ほら。言ったろ」
家じゅうの家電が再起動したのに、の手はつかみどころのほとんどないソファの生地をまだ掴んでいた。
「…」
いまあの横に居たら。
顔に出さず思って露伴はテレビをつけなおした。
あいにくCMだ。
は立ち上がる。
「先に、休ませていただきます」
「ああ」
「おやすみなさい」
「…おやすみ」






結局、露伴は一人でとなりのトトロを最後まで観た。
宮崎駿の一作品をつらぬく、彼が魅力と思ったものを譲らない姿勢は嫌いではない。よほど頑固者なのだろう。トトロが終わると、すぐさま番組はニュースに切り替わった。大雨洪水暴風波浪警報がS市とその周辺地域に発令されているが、幸い露伴の家は台地だ。

0時をまわってなお、雨風は激しさを増した。

「…描くか」
目標としていたところまでの原稿はすでに終えていたが、露伴は無為に天井を見上げるのをやめて静かに立ち上がった。
屋根裏へ続く正方形は真っ暗だ。早朝イタリア語講座を見るためにもう眠ったのだろう。
通り過ぎた二拍あと、ガラスの砕け散る音が上で響いた。
振り返ると今いた廊下に、正方形からこぼれたちいさな破片が散らばっている。
「どうした!」
正方形の暗がりに向かって叫ぶ。
屋根裏部屋から外の風の音がそのまま聞こえる。
雨が床を打つ音もする。
ひとの声は返らない。
!大丈夫か!」
「…ろ、露伴、さま」
「いるな、よし、無事か!?動くなよ!いいか、絶対動くなよ、すぐに行く」
「いけません、窓が、」
忠告を無視して、露伴はただひとつのガラス片も踏まずに屋根裏へ駆けあがった。
下の廊下の明かりだけでも上がひどいありさまであることはすぐにわかった。窓ガラスは割れ砕けてそこらじゅうに散らばり、雨風はこの屋根裏めがけて突っ込んできたんじゃないかという勢いで露伴の頬をたたく。
「露伴さま、あしが」
は奥のベッドで壁に身を寄せ小さくなっていた。その姿の輪郭を見た瞬間ガラスも顔をたたく雨も忘れて窓を横切り、を片腕でひっかかえた。震えている。
「ちゃんとつかまれ」
ぼうっとしていたの腕が露伴の首にしっかり絡まったのを確かめてから、残った片手で器用にはしごを降りた。そのまま一階の洗面所まで連れて行く。

「ケガをしたか」
おろしてから声をかけたがびしょ濡れのは呆然と目を瞠っているばかりで、反応が鈍い。
しびれをきらし露伴が顔や首、手足を改めたが、怪我はどこにもないようだった。
「ったく。君、葉っぱつきまくってるぞ」
取り払ってやっていた手は、濡れ、冷たくなって震えている両手に強くつつみこまれた。
「お怪我は」
奥歯をガチガチ鳴らしながらいうものだから、露伴は鼻で笑う。
「ぼくを誰だと思っているんだよ。君なんかに心配されなくてもヘブンズドアーで自分に書いておいたんだ、ガラスを踏まないってね。ぬかりはない」
「よかった…」
はこれ以上ないほど深く息をついて全身脱力した。これではどちらが助けられたほうかわからない。
「ほら、君はさっさと風呂」
「屋根裏が」
「いいから、君は風呂だ。洗って来い」
「選んでいただいた家具が」
「心配ない。応急措処置だけして濡れたものはあしたクソッタレ仗助にでも戻させりゃあいい。愛しい君のためだ、喜びで咽び泣きながら来…」
なんて顔するんだ。
ガラスが割れたのに驚き過ぎて、表情を取り繕うのを忘れたか。
「…着替えは持ってきてやる」
脱衣所にを残して扉を閉めた。リビングの畳み終わった洗濯物から適当に自分のシャツを選び出し、戻りがけに二階の正方形からはぽた、ぽたりと雨水が垂れているのを見上げた。屋根裏からどどうとくぐもった音が聞こえる。
しかし、シャワーの音がしない。
、入るぞ」
一言おいて足を踏み入れると、は濡れた服を着たまま風呂の下向きの蛇口のまえで小さくなっていた。
蛇口から湯桶に注がれる水に手を付けていたが、露伴に気付くと蛇口のつまみを「止」の位置まで戻した。
ゆっくりと目がそらされる。
「…なにやってるんだ?」
「お湯が出ないのです」
「ああ、一回停電したせいか。何回かやったら出るからちょっと貸してみギャア!」

露伴の頭に冷たい水が降り注いだ。
声に驚き尻もちついたにも、露伴の髪を濡らした水がボタボタ垂れた。
無言の露伴は、厳粛に蛇口のつまみを「止」の位置まで戻した。
水滴は落ち続ける。

「…」
「…」
「…」
「…プッ!フフ」

噴き出した瞬間、恐ろしい眼光がをさしぬく。はほんの数秒こらえようとがんばったが、唇が波うち息が漏れてまた笑った。いつかを思い出したのだ。
水にぬれた睫で、睫がとりこぼした水に潤んだ瞳で、生気をとりもどした頬で、は笑った。

こんなことで君は笑うのか

その頬に手をあてる
迫っても逃げることを知らない。
唇を重ねた。
冷たくてやわらかい。
はなすと、は口づけの瞬間と同じ顔をしていた。
大きな瞳をはたと瞠って、まばたきひとつしない。
「好きだよ」
時をとめたの唇を親指でなぞり、もう一度顔を寄せた。
ほそい腕がつっかえる。
互いの間で折りたたまれた腕は露伴の胸を押し戻そうとしているのかしていないのか、いたくか弱い力加減だ。
は下を向くことで視線を逃がしたが、顔は面白いように色づいてゆく。
かぎにした指でくいとやると、いとも簡単に上向いて、
最後の抵抗に露伴の胸板を押した手を無視して腰を支え、前より深く唇をあわせた。



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