「…風邪ひくから早く風呂に入れよ。夏風邪はバカがひくんだ」
それだけ言い置き、バスルームの床に服のままへたり込んでいるを残して、露伴はバスタオル一枚をひっつかんで脱衣所を出た。
そして露伴は廊下の壁と骨伝導で対話した。

言ってしまった

階段を数段あがり、再び壁と対話する。

やってしまった

二度のキスだけで露伴の若い体はおおいに期待し、全身の毛が一斉に毛羽立った。の体からだんだんと力がぬけていって、服をひきつらせて落ちてゆく指に胸をかかれたのにさえぞくぞくした。
興奮につれてだいぶ攻め込んでしまった二度目の口づけを、惜しみつつ離す瞬間までは露伴の頭の中は次のステップのことでおっぱ、いっぱいだった。
露伴を見上げたの大きな瞳がいま少し無垢でなければ、こんなとこしえの罪悪感にさいなまれることもなかったろう。

ほとんど脳みそがまわらないままで階段を上りポタと頭に水が落ちたので、露伴は「あ」と天井の正方形を見上げた。 足元のガラスは露伴の足の形に隙間を作っている。気をまぎらわすために露伴は屋根裏へあがり、懐中電灯で様子を確かめた。
雨風はさきほどより幾分弱まっている。ガラスは一部だけが割れていて、それ以外は窓枠に残っている。しかし特殊な形の窓だから結局はそうとっかえだろう。
「なにか飛んできたような割れ方だな。空き缶が風に巻き上げられたとして屋根裏まで飛んで窓を割るものか?」
懐中電灯でびちゃびちゃになった床をあちこち照らす。
「ん?なんだこれは」
割れた窓のすぐ下に、野球ボール大の塊が落ちている。持ち上げると確かに石で、ずしりと重い。
速やかに懐中電灯を消しそっと窓の下を覗き込む。
こんな天気だ、雨でけぶる道には人っ子一人姿が見えない。
石を持ちはしごをおりたとき、足の形に隙間を作るガラスの上で露伴はその石ころが真っ赤なペンキで塗りこめられていると知った。












「今日はぼくがいるところで寝るんだ」
リビングで待っていた露伴が、長い風呂から上がってきたにそう告げた。
半強制的に二階に連れて行かれ、放り込まれた露伴の仕事部屋のはじっこには、布団と毛布がしいてある。
は具体的にイメージできるほど知識がなかったが、それでもおぼろげな“殿方と寝る”イメージともだいぶ違ったらしく、混乱をきたした。
「今日はここで寝るんだ、ここの廊下側。窓には寄るなよ」
「…どうしてでしょうか」
「君の部屋は使えないからだ。ビニールシートでふさいだが、びしょ濡れだからな」
「ここでは露伴様のお仕事の邪魔になります」
「まあ、邪魔だけど」
「ではわたくしはリビングで」と喜んで逃げようとした後ろ襟を掴まえられる。
「いいから君は今日、ここで寝るんだ」
「は、はあ…」
首をしきりにかしげるに対して、露伴はまるでいつもの岸辺露伴である。
ぐずぐずしているにしびれをきらし、ドンと布団に突き倒した。やわらかな冬用羽毛掛け布団がをやさしく迎えた。そこに露伴が発情した獣のように覆いかぶさって
「ぼくは仕事をするから、騒ぐなよ」
来ない。

は露伴の背中を見つめ拍子抜けした自分のはしたなさを恥じた。
それきり言われたとおり掛け布団を下にしいて、毛布をかぶって横たわった。
仕事の椅子に座ってしまった露伴のほうをじっと見ていると、鋭い筆先がせわしなく紙の上を走る音を鳴らしながら、彼は振り向かずに言った。背に目があるよう。
「明かりはつけっぱなしにするけど毛布をかぶっておけば大丈夫だろう」
「大丈夫です」
「じゃあ、おやすみ」
は様々な疑問をうかべながら、毛布を口のあたりまで持ち上げる。
風呂でもそうしたように毛布の中で唇をこっそりさわり、(どうしてあんなことをなさったのだろうか)と考えるたび、まっすぐな言葉がその答えとして思い出され、とても眠れそうにない。
けれど
それはおかしなこと
「うるさいぞ」
「申し訳ありません」






布団の上でがもぞもぞしただけで「うるさいぞ」と言って、背を向けているのに意識がに向いていることを気づかれやしなかったろうか。
露伴は丸ペンで忙しく楕円を書き続ける不審なルーチンワークを続けた。

真っ赤なペンキで塗られた石は隠し、が風呂に入っている間に空条承太郎にも連絡をいれた。彼はいつもの調子で「そうか」と言った。投石なら普通の人間の可能性もあるが、すこし“奇妙”なこの町のことだ、財団には一応連絡をすると、そう言った。
「用心して今夜は窓には近づけないほうがいい」
「ええ、わかっています」
「明日仗助を連れて行く」
「来なくていいです」
「石とペンキがもとあった場所まで追えば犯人に見当がつく」
「…わかりました」
はどうしている」
「ど!いや、あいつはっ、別に、なにも!ないですけど」
「…なにかあったのか?」
「なにもないって言ってるだろ!でしょう」
「抱いたのか」
「そ、そこまでしてないっ!断じてっ」
誘導尋問にどこかまでしたことを白状したと、露伴は言ってから気づいてわなわなとこぶしを震わせる。
「ほどほどにな」
「あ、ちょっ」
そこまでで電話は切れた。たしなめる声に大人がガキをわらう哀れみにも似たものを感じ、音の記憶が、楕円を描く今もなお、思い出すたび岸辺露伴を辱める。

頭が熱く、はーっと露伴は紙に向かって長く息をついて髪に手を差し込んだ。
「…」
肩越しに、チラと後ろを覗き見る。思い切り目があった。
目をそらした方が負けのチキンレースだ。
「…」
「…」
「…麦茶をお持ちしましょうか」
「いや…いい…」
首をもとに戻し、楕円を描く速度が上がった。そうでもしてないと、そうしていてもバスルームの行いが鮮やかな感覚を伴ってフラッシュバックする。

正直、かわいかった。

ヘンなこともしたい。

でもだがしかし今は、昨日まであんなにぎくしゃくしまくっていたのに急にキスしてこ、ここここ告白までして、この露伴が「好きだ」などと言うなどアホかありえん、バカ野郎おまえは本当に岸辺露伴か。ためしに絵を描くか。ヘブンズ・ドアーでも。…うん、ぼくの絵だ。それにの部屋に石が投げ込まれたんだぞ、こんな台風のなかでやったんだ、ここがいくら奇妙な町だといってもいたずらにしては根性がありすぎる。そっちの心配をすべきてあって、ここに布団を置いたのも一切やましいことはなく、ここなら一番部屋が広く、何を投げ込まれてもに届きやしないしガラスの破片が飛んでも廊下側までは届かないからだ。恥ずかしがっていやいやするの体を無理やりひん剥いて清らな体をとんでもない恰好にしてやってあられもない声をあげさせたいなどと、そんなことを思うはずがない。それでもどうしても体も頭もまだ興奮して

「露伴様。お加減が悪いのでは」
「わ!」

ななめ後ろ1メートルの距離にが立っていた。

「な、なんだよ!あっち行けよっ」
「苦しげで」
「苦しくなんかないっ」と露伴はハアハア肩で息しながら言う。
「お顔も熱があるように赤くて」
「もとからこうだ!」とどちらかと言えば色白の露伴が顔を真っ赤にして言う。
「だいたいおせっかいだぞ、なれなれしい」とに一方的に二回キスして好きだと言った口が横滑りを続ける。
露伴はぱっと目をそらした。
「ぼくが仕事をしているときは話しかけるなって言ったろ」
「お許しを」
冷たい手が露伴の額に触れた。
「へ」
露伴は金縛りにあったようにうごけなくなった。
「…矢張り」
の手が離れる。
「熱うございます」
それは興奮しているからだ。
間近でにおいたつような色気にあてられているからだ。
「熱の病は心を狂わすこともあると。そのせいだったのですね」
「…なにが」
「露伴様がおかしかったことです」
すべての過ちを赦し慈しむ聖母の笑みをした。
なんて美しい娘だろう。
「これ以上悪くされるといけません。さあ、どうぞもうお休みになってください」
差し伸べられた両手のひらはのっぺりと白く、傷一つない。
輪郭から神秘的な輝きを放ち、蛍光灯の明かりよりも強烈にこの家に光りを満たすようだった。
風の音がやんでいる。
雨の音もしない。
「どうぞ」
この世のものとは思えないほど美しい女が美しい手を伸べて、その頬を滔々と涙がつたう。
「おじいさま」
両手をのべたまま動かないから二歩、三歩と後退る。
「何を言っている?」
「いいえ」
同じ顔のまま
「なにも」
こめかみを汗がはしった。
露伴のまぶたがひくりと跳ねる。
細い絹糸のような予感をたぐって窓に寄り、ブラインドを天井から引きずりおとして夜を見上げた。

満月が浮かぶ

窓にの姿が映る。
露伴は振り返った。
は涙している。
その目は月にそそがれている。
頬へ触れても蝋で固められたように動かない。
「ヘブンズ・ドアー」
蝋づけの頬のページが開いた。



        露伴様はどうしてあんなことをなさったのだろうか
        好きだと仰せになったのが答えだろうか
        わたくしも露伴様が大好き
        とても眠れそうにない。
        でも
        それはおかしい
        大好きだと、そう思うのは露伴様がわたくしを育ててくださったからだ
        本当は仗助様が好き
        露伴様の仰せは、行いは、高熱の病ゆえ
        高熱の病ゆえ
        いたわしや
かぐや姫の在る処に居たりて見れば、なほもの思へる気色なり。
これを見て「あが仏、何ごと思ひ給ふぞ。おぼすらむこと何ごとぞ」と言へば、
「思ふこともなし。ものなむ心細くおぼゆる」



「…あが仏、何ごと思ひ給ふぞ。おぼすらむこと何ごとぞ」
露伴は竹取物語の翁の言葉を指でなぞりながらゆっくりと声にした。
月を見ては涙にくれる愛しい我が子、どうして何を思って泣くの
蝋づけだった首がきりきりと浄瑠璃のように動いた。

「思ふこともなし。ものなむ心細くおぼゆる」

「おまえは誰だ」

腕を強く掴む。

を返せ」

とめどなく涙する顔が首をかしげ続ける。
クンと、服が引っ張られた。
の右手が露伴の裾を掴んでいる。
薄い皮膚に骨が浮き関節を白くするほどぶるぶる震え、それ以外の体も顔もなんと神秘的に美しいことだろう。

「…
震える右手に重ね、瞠られた目を覆う。

「月を見るな」
「いかで月を見ではあらむ」
「もういい」

口づけでふさいだ。
がそれきり元のに戻ったと、ひっついてきた時の抱きつき方でわかった。
文字どおり、ひと段落がおわったからだ。
ヘンな古語を使うことも、神々しくこの家を照らすこともない。泣きべそも美しくない。でもかわいい。

もう竹取じじいでもなんでもかまわない。
竹取じじいがかぐや姫に恋をしたんじゃあない
この岸辺露伴が、きみに恋をしたんだ。



<<  >>