タクシーの車内で、運転手は高笑いをした。
左手には大きなナイフが握られている。
「ヒッヒッヒ!日本人観光客ってのはチョロいったらねえや。さあお嬢ちゃん、あり金全部出しな、さもなきゃお父さんとお母さんに電話して身代金をぉ…」
ミラーから後部座席を見て、運転手は目を見張り何度も瞬きした。
盗んできた檸檬色のワンピースの女は、この世のものとは思えない絶世の美女だったのである。まるで物語から飛び出してきたみたいだ、とそれが正解とはついぞ気が付かないまま運転手はぐんぐんスピードを上げ、荒くハンドルを切る。
入り込んだ道はどんどん細くなり、空は暗く、運転手の鼻息は荒くなっていく。

「ぼ、ぼんじょるの」

この状況で、勉強してきたイタリア語の挨拶をした。
乱暴な運転のなかでも手に持った本を必死に開いている。
「私は、といいます。ネアポリス・ハイスクール、行きます。ぁ、行く、したい、です。でも、ともだち、エアポート」
時折本に目を落としながら、たどたどしいイタリア語でそう言った。
「あっ」
運転手が急ブレーキをかけ、は前の座席に顔をぶつけた。
落とした本を拾い上げると横のドアが突然開き、由花子にきれいに結い上げてもらった髪を引っ張られて車の外へ引きずり出された。
「うっ」
砂をまいて、舗装されていない土の上に倒される。
が顔を上げると、あたりは先ほどまでの青空が嘘のように薄暗い。四方のうち三方をせり立つ石造りの建物に囲まれ、唯一の逃げ道である一方には、その逃げ道を奪うためにタクシーが道を塞いでいた。タクシーの前には赤ら顔で不気味な笑みを浮かべる運転手がいる。
はとっさに履いていた平べったいミュールを片方掴んで振りあげた。
はじめのうちはイタリアの文化として、タクシーは一人一台で出発してしまうものなのかもしれないと、愚かにもこの運転手を信じようとしていたが、もはや相手が無法者であることは疑いようがなかった。
男はその程度ではひるまず、むしろ面白がってにやつきながら距離を詰めてくる。
後退りしたのワンピースを鷲掴みに引っ張りボタンがちぎれ跳ぶ。振り下ろした靴は男を打つ前に腕ごとはじかれ、は再び土の上に倒れ込んだ。
「おとなしくしろっ!ぶっ殺すぞ!!」
倒れたところで胸倉をつかまれ、大きなナイフが首の下にあてられる。
「命が惜しけりゃ、黙って素っ裸で這いつくばっていろ!」
そう言った男のほうが思わず息をのんだ。
圧倒的優位に立って引き倒しているはずなのに、女の目は炯たる光を宿して依然男を見据えていたのである。悲鳴を上げないのは恐怖で声が出ないからとは見えなかった。
男は一瞬間以上射すくめられていたことにはたと気がつき、わなわなと震えて力任せにナイフを振り下ろした、そのときである。の頬に風が触れた。
跳び込んできた黒服の足が一本、の目の前にあって、高く上がっていたもう片方の足がタクシー運転手の鼻を叩き潰した。つやつやの靴にはテントウムシの飾りがついている。

「失礼します」

優雅に紅茶でも飲んでいるようなイタリア語の声音が聞こえたかと思うと、運転手の鼻をつぶした足がをまたいで着地し、今度は後ろ回し蹴りが運転手のあごに強烈な一撃を与えた。
運転手が赤煉瓦の壁に激突してぴくぴくするばかりで動かなくなったのを確認してから、ブロンドの少年はくるりとこちらを振り返った。
土の上に落ちていたのイタリア語教本を拾い上げると手で丁寧に砂をはらう。
「大丈夫ですか」
息一つ乱していない少年は、意志の強そうなまなざしのわりに特に表情もなくにたずねた。
彼の話したイタリア語はがNHKの言語講座で習ったとおりのものだったが、驚きのあまり言葉を返せなかった。彼の顔に見覚えがあったのだ。
―――仗助様
いや違う、はすぐに康一が写真で見せてくれた人物に思い当たった。
彼はこの旅の目的
彼こそは生なきものに生命を与えるスタンド使い
「ジョ、ジョ…」
あまりのことに口がうまくまわらない。
むこうも何も言わずの顔をじっと見ている。
「…ジョルノ」と唇の端からこぼれたのとほぼ同時に、の檸檬色のワンピースが縦に裂けて、空のかなたに猛スピードで吹っ飛んでいった。

こんなこともあろうかと、仗助はのワンピースの裾をほんの少し切って持っていたのだ。しかし彼らのもとに戻ったのは、発信機付きの携帯端末がポケットに入った檸檬色のワンピースだけだった。






***



状況を素早く理解し、そこから生ずるあらゆるリスクとインパクトを予想し、最善の道を選び進む。
それが常のジョルノ・ジョバァーナであったが、突然ブラジャーとパンティー姿になった女を前にしては、さすがのジョルノも「えっ、」と言ったきり動けなくなった。
女の方もわが身に起こった出来事をまだ理解していない。
「え?」
ジョルノの視線の先をたどって、自分の乳房までたどり着くと女は一瞬で真っ赤になって両腕で体を隠した。
「おージョルノ、ここにいたのかよ」
袋小路を塞ぐように停車していたタクシーの向こうからミスタが顔を出し、ジョルノの姿を見つけると、軽やかにボンネットを飛び越える。
「急に走っていくからなにごとかと思っ「ゴールド・エクスペリエンス・レクイエム・パンチ」
「ボゴ!!」
ジョルノのスタンド、ゴールド・エクスペリエンス・レクイエムに突然ぶん殴られて、ミスタは後ろに弾き返された。
「え、なに?いまオレなんで殴られた???オ、オレ死に続けるやつか?!!嘘ォ!?」
「いえ、ただのパンチです」
「おめえテメぇジョルノ、ただのパンチもなんでだよ」
ミスタは抗議の声をあげるが、ジョルノの耳にはその声はもう届いていなかった。
―――このひと、ゴールド・エクスペリエンスが見えていた
彼女はスタンド使い
ジョルノはそう理解した。
ミスタがおうおう言いながら駆け戻って来る足音を聞くと、ジョルノはおもむろに自分の制服の上を脱ぎ、土の上で茫然としている下着姿の女の肩にかけて前のホックをとめた。
「…ぁりがとうございます」と今にも泣きだしそうな声の日本語で言い、その直後に思い出したように「ぐ、ぐらっつぇ」と言い直した。
ジョルノは日本語がわかるが今この場でそれを明かす必要はなかった。



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