道場でひとり、帯の両端をきつく握りしめていると突然背を叩かれた。
「緊張しすぎや」
「む…」
返す言葉が見つからず、リョウはガチガチになって怒っていた肩をおろした。
「わいとユリちゃんもおるんやし、いつもの調子でどーんと構えとったらええ」
そう言ってもう一度背を叩いたロバートは、今日はめずらしく胴着を着ていた。

ガルシア家から正式に書簡でコンタクトしたところ、まさかの再対面OKが出た。
しかし、どこでどう伝え間違ったのか、再会の場は高級ホテルのレストランではなく極限流道場、内容は会食ではなく空手のプライべートレッスンになった。
リョウによると確かに空手に挑戦してみたいとは言っていたらしいが、互いの思惑が初っ端からすれ違っている気がしてならない。
とはいえ、内容がどうあれ一度会えるならば、この好機を逃しては男じゃない。絶対受けろ!

そう ロバートに鼓舞され、リョウは王女のプライベートレッスンを慎んで承り、今日に至った。
知り合いもいた方が安心するだろうからとロバートに応援を頼み、男ふたりに囲まれるよりも同性がいたほうが安心するだろうとユリにも協力を頼んだ。
そのユリは、いま更衣室で王女様のお召し変えを手伝ってくれている。
リョウの緊張の理由は、単に意中の女性と再会できるからというだけではない。ロバートから彼女が本物のお姫様だと聞き、さらにはただの風邪で死にかけるような、生来体の弱い人だと聞いて、戦慄していたのだった。
「ま、無理だけはさせんようにな。なに、脚怪我した子供やと思えばいい」
「…ああ。わかった」
好きな人の相手もお姫様の相手もどうすればいいかわからないが、怪我をした子供だと思えば多少は師範としての行動の指針が見えてくる。
リョウは道場の上座で深呼吸した。
「お、噂をすれば」
「おっ待たせー」
道場の入り口にユリに伴われたの姿が見えた。
「なんや姫様、よう似合っとるやないか。それに調子よさそうやな」
胴着の肩も裾も大きくあまらせて、帯でなんとか腰につなぎとめているという印象だ。胴着から出ている部分はどこもかしこも簡単に折れてしまいそうなほど細かった。
イブニングドレスから胴着への変化に、リョウの脳は混乱し始めた。
追い打ちをかけるようにロバートが肘で小突いてささやく。
「ポニテ。貴重やぞ」
あっという間に茹で上がったリョウに「わいのポニテ見て落ちつけ」と言い残して、ロバートは姫君のエスコートに行ってしまった。
リョウはロバートのポニーテールを凝視して、急いで冷静さを取り戻した。



稽古を始める前にが三つ指ついて律儀にプライベートレッスンの月謝袋を差し出すと、リョウは畏怖とはじらいと真面目と焦燥を混ぜた複雑な表情でこれを受け取った。
正座はわるい方の左足がちょっとはすに出ているが、うまいこと座れている。
この様子を後ろから見ていたユリが小声で尋ねてきた。
「ね、さんの足ってそんなに悪いの」
「まあ、そうやな。杖つかずに歩けてるからきょうは調子いいみたいやけど。悪いけどユリちゃんも手ェかしてあげてな」
「まかせてよ」
ユリが力強く親指を立てた。
「それにしてもさあ」
打ってかわってうっとりとため息をつく。
「お姫様かあ…!」
「体のこともあって王位継承権は8年くらい前に辞退しとるけどな」
「お兄ちゃんと結婚してくれたら私も高級なデパートとか行ってドレス選んだり靴選んだりするのかなあ」
「お、ユリちゃんもようやくそういうのに興味でてきたか。着たかったらわいがいつでも買うたるでー?」
「ちがうちがう、さんと選びに行くからいいの!ほら、うちはムサい男しかいないでしょ」
「それわいも入ってる?」
「買い物も基本コストコ。綺麗なお姉さんとおしゃれなお店でお買い物ってずっっっと憧れてたんだ。あー、お兄ちゃんと結婚してくれないかなあ」
何事も物怖じせずポジティブにとらえる。ユリの美点だとロバートは思っていた。
そんな会話が繰り広げられているとは知らない兄の方は、しどろもどろになっているのが後ろからでも見て取れた。
「先生が三人もついてくださるなんて心強いです。ありがとうございます」
「いや、あの、ご丁寧に…どうも」
月謝袋をはさんで頭をさげ合ったあと、いきなり困ったことが起きた。
が正座の姿勢から立ち上がれず、やや試行錯誤があって片足でそうっと立ち上がろうとしたのである。無意識に手をつくものを探す仕草をしたが、道場にはちょうどいい高さの椅子もテーブルもない。
ロバートは膝を起こしかけたが、リョウがごく自然に手を貸した。
お、と目をみはる。
そうだった。
あの親友は、綺麗な女性のお相手はドヘタクソでも、弱者への気遣いはできる男なのだ。



まずは師範から空手の心得を聞き、次に準備運動。そのあと基本の構え、基本の足技手技を体験するのが、極限流空手道場体験入門コースの基本的な流れである。
「それでは、準備運動をする…します」
人数がいるときは整列したままか輪になって準備運動をするが、今日は四人しかいないので大きな四角を作った。
いつもの稽古の調子で話していいのか、敬語を使えばいいのかにすら迷っている様子のリョウに目をやり、それからに目をやった。
リョウと違ってこちらはきらめくようなまなざしで、いかにもやる気十分である。
こういうはちょっと今までに見たことがなかった。
社交界デビューをする同い年の子らを車椅子から眺めているときも、晩餐会で年配の奥様から遠回しにけなされたときも、始終機嫌よさそうに優雅な微笑をたたえているような人だったのだ。
てっきりああいう顔なのだと思っていたが、あの微笑は強靭な精神力から繰り出されていたものだったのだと、いまの楽しそうな表情を見て確信に至った。
全力でサポートしてやりたい心地になった。
「まずは跳びはねる運動から」
自分もたいがい世話焼きやなあと思いながらジャンプする。
ん?
ジャンプ?
は拳をぎゅっと握って、じりじりと自分の足元と無言のにらみ合いをしている。悪い左足をそうっとあげて、二、三度膝を曲げ、右足だけでジャンプして着地できるか、カムブリッジ大を首席で卒業した出来のいい頭の中で計算しているに違いない。そして計算をミスった。
えいやと跳ぶ。
ロバートの頭にすっ転ぶ映像が見えたが、ほとんど床から足が離れていなかったこともあり無事着地した。
まったく、危なっかしい。
同じ要領でもう一度跳んでバランスを崩した。
尻もちをつく前にその背を支えたのはリョウの腕だった。
「無理をしてはいけません。できないときには別の方法を考えましょう」
「…ごめんなさい」
ロバートはほっと胸をなでおろす。
それにしても準備運動でこうでは、先が思いやられる。が、サポートすると決めたからにはリョウのいうとおり、別の方法を考えるまでだ。
「もう三度目です。苦労をかけます。ありがとう」
「あ、いえ」
助ける行動にはためらわないわりに、助けたあとは手のやり場に困って腕をひゅっと引っ込め、咳払いでごまかしてもとの位置に戻った。
まったく、先が思いやられる。



はどう見ても空手の楽しさを体験できたとは思えないへなちょこぶりだったが、その後も二週間に一度は黒塗りの車が極限流道場の門前に停まるようになった。
両足を強く踏む構えすらできないものの、本人はしごく熱心なのである。
一方のリョウは指導方法に毎回頭を悩ませていたが、思わぬギフトもあった。
門下生たちから最近師範が優しくなったと評されたのである。
「やらない」者には依然厳しいリョウだが、「できない」者に対して根性論を持ち出さなくなったという。その効果は、ここ数週改善し続けている門下生の離脱率にも表れていた。

そんな経済効果を生んでいるとは知らない姫君は、家では筋トレまでしているという。稽古のあとにユリに力こぶを見せてほしいと言って、互いの二の腕を揉み合ったり、背中を触り合ったりしていた。
この様子を男ふたりが遠巻きに見る。
「…あれ、ちょっとエッチやな」
「あの人をそういう目で見るのはやめろ。あとうちの妹も」
「顔真っ赤にした奴に言われる筋合いないわ、このむっつりスケベ」
「うるさいっ」

こんな調子だったリョウが、五回目のプライベートレッスンのあと、ついにを水族館に誘った。
事前に相談を受け、「そういうことを狙って稽古を受けたと思われたくない」とかぐずぐずいうリョウにロバートは
「ええか」
と強く言い置き
「俺がおまえの立場で、おまえが姫のお兄ちゃんだったとする」
「む?ああ、うん?」
「俺がむっつり顔で稽古と称してずーっとあの人でエロいこと考えながら体触ってたとして」
「そ、そんなことは考えていない」
「エロいこと考えながら体触ってたとして、そしたら姫のお兄ちゃんのおまえはどう思う」
「覇王翔吼拳を使わざるを得ない」
「せやろ。ほなら、姫はそういう空手のセンセのことどう思うと思う」
「気持ち悪い」
「せやろ」
「もんもんとしながら稽古するより、当たって砕けるのがおまえらしいし、あの人のためでもある」
この考えにリョウはいたく感銘を受けた様子だったが、まさか本当にすぐに当たりにかかるとは思わなかった。
稽古のあと、顔を真っ赤にしたリョウがになにごとかを懸命に話しているのを見、ロバートは頭を抱えた。
リョウには言わなかったがの鉄壁ぶりは社交界の男たちの間では有名だったのだ。いったいこれまで何人のご嫡男が姫君の連絡先を聞こうとして流麗にかわされ儚く砕け散ってきたことか。
一度言ってしまったが最後、お互い気まずくてもうお稽古もここまでになるだろう。砕け散るリョウよりも、本気で体を丈夫にしようと取り組んでいたあの顔つきを思い出し、には悪いことをしてしまったと思った。
あとで必ず謝罪の電話をいれよう。
リョウはきれいなおネーちゃんのいる店にでも連れて行ってやろう。
と向き合っていたリョウが突然体の向きを変えた。
素早く道場のなかへ滑り込み、木戸を閉め切った。
なにやら中でびったんびったん跳びはねる音がする。
「んん!?」
ロバートはに詰め寄った。
「ななな、一体なにがっ」
「ロバート」
熱をはらんでうるんだまなざしを斜め下へ差し向けて
「あの…リョウ様はふだんどんなお召し物でいらっしゃるの」
とか言った。



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