大した貧血ではなかったが、さすがというべきか紅丸はオードリーの体調の変化にすぐさま気がついて、中堅戦が始まる前に伝言役の京だけ残してオードリーを中に引っ込めた。
その時点までは紅丸、大門、矢吹真吾の3人が付いていたが、まずいなくなったのは紅丸だった。出場者用の医務室にはドクターの姿がなく、ドクターを呼びに飛び出していったのである。

その背を見送って大門が「ふむ」とうなる。
「医者ならリング近くに控えているだろうが、試合中だからな」
これを聞いた真吾はあからさまにうろたえた。
「ええ!?それじゃあどうすれば、あ!救急車ですか!?」
「ありがとうございます。大丈夫です。中に入ったらだいぶ楽になりましたから」
「え、でも…」
オードリーはゆっくりとうなずいて見せた。
普通に生きていたらちょっと見ないような年上の美人の振る舞いに、真吾の頬はバラ色になり、目がおよぎだす。
「そ、それじゃ、その、俺、なんか買ってきましょうか!?焼きそばパンとか!」
「真吾、落ち着きなさい」
「じゃあ、えと、飲み物!コーラとか」
「それでは、お言葉に甘えて。ボトルウォータをいただけますか」
「了解っす!すぐそこに自販機あったんで行ってきます!」
ボールを投げてやらないと鳴きやまない様子だった真吾は、下命を受けると猛スピードで駆けだしていった。
「申し訳ない。騒がしくて」
「いいえ、ご迷惑をおかけしてしまったのはわたくしです。まだ試合の途中でしたのに」
「なんの」
親切な大門に感謝を伝えたが、心臓はまだ早鐘を打っていた。
リョウの血が流れたところから、ほとんど試合の内容を覚えていない。稽古とは全く違う動きをしていたという印象がおぼろげに残っているだけだった。
格闘技の試合を観戦に来て、血を見るのを怖がるなど、そんな人間にはそもそも格闘技を観る資格がない。大会のパンフレットと招待チケットをもらって、毎日眺めては心待ちにしていた。昨日など女性格闘家チームの試合に感化され、ホテルの部屋で筋力トレーニングを多めに課した。なんとおこがましいことだったろう。
ふいに、大きくて分厚い手が頭に乗った。
「縁ある人間の怪我や病気は特別だ」
頭をぽんぽんと二度たたかれる。
「わしは妻が包丁で指を切ると貧血をおこす」
心遣いに胸をうたれ、意識して背すじをしゃんとさせて見せた。
「お水買ってきたっスー!あとリョウさん勝ったらしいですよ」
引き戸が壊れるのではないかという勢いでドアが開き、ボールをとってきた犬が駆け戻って来た。出ていく前よりちょっとなごんだ医務室の様子に気づく様子もない。
入れ替わるように大門がドアの方へ歩き出した。
「あれ、大門さんどこへ行くんですか」
「リョウたちが引きあげてきたら連れてくる」
ちゃんとついていなさい、と言い残し、ぴしゃんとドアが閉まった。
「…」
「…」
二人きりになると、ボトルを持って駆け込んで来た時とは打って変わって真吾は元気を失った。オードリーは、尻尾を巻いてすっかり畏縮した犬の幻を見る。哀れに思い、オードリーから他愛もない話題をいくつか振ってみたが、真吾は顔を真っ赤にして人間語を話せなくなっていくばかりだ。
そんなとき、外がにわかに騒がしくなった。
試合会場の歓声がここまで聞こえたのかと思ったが、声はやけに近い。
今度ははっきりと、すぐ近くの廊下で悲鳴のような声が上がった。
「誰か来てくれ!むこうで草薙京と八神が鉢合わせになったっっ!」
「でええ!?」
真吾は丸椅子を倒して立ち上がる。
「どどど、どうしよう!」
とっさにオードリーの方を見たが、京と八神の因縁を深く知らないオードリーにはことの重大さがわからない。ひとりでに追い詰められ
「と、とりあえず俺、行ってきますっス!!」

真吾が飛び出していってもしばらく廊下の向こうの騒ぎはやまなかった。
慎重にベッドを下り、杖をつけばなんとか歩けることを確かめて扉から顔を出す。
喧騒はだんだんと遠ざかっていき、やがて聞こえなくなってしまった。
誰もいなくなった廊下の先をじっと見つめていると、乱れた前髪が頬にかかった。
人が戻って来る前にあるべき姿に立て直しておかなければならない。


<<  >>