冷たい水で手を洗うと多少感覚がクリアになった気がした。
化粧室の鏡で手早く髪を結いなおし、はや足に医務室への道をもどる。
試合の結果が気になったが、こんな状態になっておいてひとりで観客席に戻るわけにもいかない。第一、道がわからない。
KOFのメイン会場であるアリーナは広大で、その地下にあるバックヤードもまた広大だった。
ただ、お祭り騒ぎの地上とはちがい、関係者しか足を踏み入れない地下施設は冷たいコンクリートで塗り固められた殺風景な廊下が延々と続く。
誰ともすれ違わないまま歩いていると、地上の歓声が地鳴りのようにここまで聞こえてきた。
試合が終わったのかもしれない。
さらに歩みをはやめて角を曲がったその直後、
「あ」
段差に引っかかって転んだ。
振り返るとなんてことはない、防火扉を閉めるためのほんの2cmばかりの溝にすぎない。
押し寄せてきたみじめな感傷を、頭を振って押し返す。
杖を手繰り寄せ、立ち上がろうとして、そこではじめて両足とも感覚がなくなっていることに気が付いた。
は半身不随ではない。かつての病の後遺症のひとつとして、まれに膝から下の感覚がなくなって歩けない日があるというだけだった。たいてい左足だけで、残念ながら今日は悪い方の日だった。
いったん廊下に背を預け、手の中の携帯端末と、腕だけで這いずっていく姿とを比較する。
おとなしく端末のアドレス帳と向き合った。
リョウたちはまだ上だろう。
終わっていたとしても試合の直後に呼び出すのはさすがに憚られる。
とすれば、
「いまどこっ!?」
ゼロコールでつながり、紅丸の声は音割れした。
ひどく焦った声音は自分のせいだと思い至り、片手で耳にあてていた端末にもう片方の手を添えた。
「心配をかけてごめんなさい。すこし転んでしまって」
いちど沈黙があって、次の声は神妙なものだった。
「歩けない?」
「…うん」
「いまどこ?そこを動かないで。すぐに行く」
廊下はどこもかしこも同じ景色で、目印になりそうなものが見当たらない。
道の先に目を凝らしていると

「いってえ!んだこれ」

電話と反対側で大声が反響した。
振り向くと、ぶくぶくに太ったジーンズ姿の男とその後ろにもう二人、奇抜な髪形の男と首まで入れ墨をした男が立っていた。
「おいおい、大丈夫かよジャック」
ジャックと呼ばれた男が廊下を曲がったときに、の杖を踏んだらしかった。
電話を耳から離して向き直る
「申し訳ありません、お怪我は」
「あ゛ぁ?」
脂ぎった顔を歪ませ、床に座り込んでいるを睨みつけた。
と、威圧的な態度から一転、口の片端を不気味に上げた。
下卑た視線はの頭からつま先まで舐めるように動く。
「クソつまんねえお遊戯会だと思ったが、来てみるもんだなあ」
にやにや笑いながら近づいてきて、の目の前に立った。
「よせよジャック、カワイソーじゃねえか」
言葉とは裏腹に、取り巻きの二人は止める様子もなくむしろ面白がっているようだった。
「ここはあぶねえとこなんだぜ?誰かのツレか?それともKOFの裏景品か?」
電話の向こうで紅丸が必死に何かを言っている。
の視線をたどって、毛むくじゃらの腕が端末を奪い取った。
勝手に終話ボタンを押し、プラプラと画面を揺らして見せる。
「KOFの主催者は金持ちのド変態が多いらしいからやりかねねえが、景品にしちゃちょっと趣向がマニアックだよなあ」
スカートの裾をすくい上げようとした男のつま先を払い、きっ、と睨む。
「わたくしに触れるな」
「オイオイオイ!」
モヒカンの取り巻きが大仰な声を張り上げた。
「ジャックに怪我させといてそりゃあねえだろ」
「こいつはうちのチームのリーダーなんだぜ?ファイター様、わかるぅ?試合に出る大切な体なわけ。こんなモンぶつけといて、ぁんだその態度は」
「よせ」
杖をへし折ろうとした入れ墨の男をジャックがいさめた。
「やるなら、こうしてからだろう、が!」
言うが早いか、端末をもの凄い力で天井に投げつけた。プラスチックの砕ける音がして、監視カメラの破片とともにひしゃげた端末が廊下に落ちた。
続けざまに杖が壁に叩きつけられ折られても、は眉一つ動かさず、毅然と男たちを見ていた。
には悪漢と戦って勝つ力はない。
しかし暴力に怯えて見せることも、無礼者に屈することもしてはならないことを知っていた。
ひるんだのは男たちだった。
清浄な光を宿した眼に射すくめられ、怖気が走ったのである。
歩けない女に“ビビって動けなくなっていた”ことをじわじわ理解してくると、怒りが頭まで一気に駆けのぼる。
「この、アマ…!」
この怒りと畏怖―――とは知るまいが―――を発散させるには、清浄と見えたそれを力任せに穢すよりほかない。目を血走らせて迫り、ジャックは結いあげられた髪を鷲掴みにして持ち上げた。髪を掴んだまま横に引き倒すと女の身体はおもちゃのように廊下に転がった。
息もおかずブラウスの襟首をつかんで乱暴に引き起こし、コンクリートの壁に背中と頭を押し付ける。
「ふざけんなよてめェ、ナメたまねしやがって」
二度、三度と背中を壁に打ちつけられても女はうめき声ひとつあげない。それどころか、ほどけて乱れた髪の隙間から、炯たる光を宿すあの眼がまだジャックをまっすぐに見据えていたことに再び震えあがる。
「お、おい、ジャック」
「もう行こうぜ」
ふざけて女子供をビビらせるだけならばスラムでもよくやっていた暇つぶしだが、事態がおかしな方向に行こうとしている予感がしていた。
「…おいおまえら…」
鼻息荒く肩を揺らし、次のジャックの声は奇妙に震えていた
「あいてる部屋でも倉庫でも便所でもいいから探してこい」
「へ?」
「この女をぶち犯すっ」

「タイガァアア キィーーーーッック!」

ジャックの巨体が15メートル先まで吹っ飛んだ。
モヒカン頭は蹴り飛ばした脚の持ち主をおそるおそる振り返り、目をひん剥いた。
「げえ!ジョー・東!?」
「なんだぁ?おまえらも食らってみるか」
ジョーが膝を高くあげて試合前の儀式であるワイクルーを踊り始めると、モヒカンと入れ墨は跳び上がった。跳び上がった二人の肩をがっしり掴んだのは、赤いキャップをかぶった男だった。
「よう」
「や、お、おれたちは何もしてねえって!」
「ホントだぜテリー!」
「なんだお前たち出場者か。試合には勝ったのか?」
「あ、ああ…不戦勝で…」
「そりゃあラッキーだったな。次の試合もがんばれよ。戦えるのを楽しみにしてるぜ」
テリー・ボガードはさわやかに笑う。
「へ、へへ、そうだな」
「それじゃ俺たちはこれで…」
行こうとした二人の肩をもう一度ぐいっと引き寄せて、耳元にささやく。
「勝ち上がったら、リングの上でぶち犯してやる」
物凄い力で押さえつけられていた肩がパッと解放されると、モヒカンと入れ墨はほとんど転ぶように逃れ、廊下の先でつぶれているジャックを拾うと、テリーたちにペコペコ頭を下げてあっという間に遠ざかって行った。

「さて、と」

テリーは廊下に座り込んでいる女に向き直り、屈んだ。
「あんた、怪我はないか」
と目線をあわせてから、その顔をまじまじと見た。
「ちょっと、兄さん。初対面の女性に失礼だよ」
「ああ、悪い。あんた美人だな」
「兄さん」
「なにィ!?」
美人ときいて駆け戻ってきたジョーが、テリーを押しのけ顔をずいと近づける。
「メチャメチャかわいいじゃねえかっ!」
近すぎるジョーの顔を今度はテリーが押しのけた。
「美人ってのも大変だな。立てるか、―――ああ、すまん」
うしろでアンディが折れた杖の破片を拾っているのを思い出す。
「それで、どこか痛くないか」
声がかえらない。
ジョーは不安げに眉根を寄せた。
「もしかして頭をぶつけちゃったんじゃねえか」
「頭?そりゃまずいな。これ何に見える?」
テリーは手で犬の形を作った。うしろでアンディがあきれたように首を振る。
「そういうときはこれ何本に見えるって指を数えさせるんだよ」
「おお、そうか。じゃあこれ」
「9、って多いぜテリー!」
ジョーがげらげら笑う。
その笑い声では我に返った
「…ありがとう、ございます」
「お、ようやく声が聞けたな。どっか痛いところはないか」
「大丈夫です。ありがとう」
「そうか。そりゃよかった」
「たく、ひでえことするぜ。もう二、三発タイガーキックをお見舞いしときゃよかった」
「そうだな」
ジョーにうなずきながらジャンパーを脱いでの肩にかけ、一番上のボタンだけとめた。
ブラウスのボタンがいくらか失われて下着がのぞいていたことに気が付いて、は赤面した。



あんなキックができるのだし、体格もいいから、この人たちはきっとKOFに出場しているファイターなのだろう。そう思って見上げていたが、はいまになってきゅうに、何度も開いた大会パンフレットの表紙を思い出した。
赤いキャップに、金髪の、前回KOFチャンピオン。
はっとしたと同時に抱え上げられて言葉が続かなかった。
「悪いが少し我慢してくれるか」
「ちょっと待てえいっ!テリー、その役はこのジョー・東様でもいいはずだ!」
「ん?…あんた、もっと食った方がいいぜ。外にうまそうなクラブハウスサンドの屋台があったからおごるよ。どうだ?これから」
はなにから言うべきか迷い、
「なんと申し上げたらよいか…」と正直に言った。
「そうだな。まずはあんたの名前を聞きたいかな。そのあと俺の誘いにYesと言ってほしい」
見事なウィンクである。
「兄さんもジョーもそういうへんな冗談はいまはやめて!あと、屋台も行かないよ」
すみませんと頭をさげ、二人をしかりつけた時とは打って変わって、穏やかにいう。
「僕はアンディ・ボガードといいます。お連れの方はどちらに?さっき上の試合がおわったところですからもう場内放送もできると思いますよ」
と申します。ありがとう。医務室にいると思うのですが、電話の途中で切れてしまったので、もしかしたら探しているかもしれません」
「電話ってこれ?」
監視カメラを破壊するために使われた端末をジョーが拾い上げる。両手の上に載せて、いたく悲しげに持ってきてくれた。
「これ、もう使えないよなあ」
「無理そうだね。ひとまず医務室までお送りしますね。もしいなかったら、大会の事務局に話してみますよ」
「なにからなにまで親切にしてくださって、ありがとう」
「はは。あんた、お姫様みたいなしゃべり方するな。そんなかしこまらなくていいって。俺はテリー、そんで」
「世界のジョー・東様だ!もしよかったら、連絡先を…、あ、いや、電話壊れちゃってるけど」
「きょうのお礼は必ずさせてください」
「じゃ、デートするか」
「もう兄さん!すみません」
「それで?は今日は何しに来たんだ?見たところ生粋の格闘技ファンって感じでもなさそうだが。誰かの応援?」
「ちょっと待った!デートって三人で一回?それとも一人一回いいの?一人一回!?」

彼らはよい人たちだ。
笑わせようとしてくれている。は笑った。
脚は冷たくなりすぎてもう感覚がなかった。まもなく視界が高速で回りだして、回転する世界に酔って、死にかけの虫のように縮こまることしかできなくなる予感がある。
しかし今そうなってはいけない。
優雅に微笑む訓練を、人よりずっと積んできてよかった。
気力が勝る。

ジョーが先に走っていき、廊下に打ち付けてある案内マップを指でたどる。
「えーと、医務室はぁーと、こっち!」
と指を向けた矢先だった。
「ジョォオオオオ!」
指の方向から紅丸の叫び声がした。
次の瞬間には、猛烈な勢いで走ってきた紅丸の両手が、ジョーの肩越しに壁にめり込んで止まった。
「はは、あれ知ってるぜ。壁ドンってやつだよ。日本のマンガで読んだんだ。やっぱり本場の壁ドンは迫力が違うな」
テリーはかろやかに笑うが、ジョーはあんぐり口をあけて紅丸の腕の間で打ち震えている。
その紅丸の眦は裂けんばかりに見開かれ、怒髪天を突き、はげしい帯電のために時々閃光がはしるのが見えた。
「女のひと見なかったか!?世界いち魅力的なっ!」
「見たぜ」
震えるジョーの代わりにテリーが答えた。紅丸はそれすら聞こえない様子だったが
「紅丸」
と呼んだとおる声に、電光石火の速さで振り向いた。
血眼になって探していた乙女の姿をテリーの腕の中に確かめると、よろよろとその場に崩れ落ち、浜辺に打ち上げられた瀕死の人魚のようになった。逆立っていた髪もくたりと肩におりる。
「よかっ…」
「心配をかけてごめんなさい。転んで動けなくなっていたところをこの方たちが助けてくださったのです。転んだときに杖も折れてしまって」
テリーの視線を感じたが、は無視した。
安心をとおり越して放心した様子の紅丸だったが、一度大きく息を吐き出したあと、すっくと立ちあがった。両手をひろげる。
「どこも怪我はない?ごめんよ、君を一人にするなんて。真吾のやつにはあとできつく言っておくから。さ、こっちへ」
「わたくしがいけなかったのです。お手洗いまで男性についてきていただくのは恥ずかしくて、バカなことをしました。どうか許してください」
こうまで言われてしまっては、最初にそばを離れた紅丸には立つ瀬がない。医者をつかまえて戻る途中、京と八神の喧嘩をとめるのに必死になってしまった咎も重なる。
「いや俺こそ、慌てすぎて俺としたことが実はその、…君の家にも連絡をしちゃって」
事情を知らないテリーたちは「家に連絡するとまずいなんて、家出中かしら?」と不思議そうである。今頃彼女の祖国から原子力空母と戦闘機がこのKOF会場へ向かっている可能性を、紅丸は考えないようにした。
「ともかく、無事で本当によかった。ていうか、なにしてるんだよテリー」
「なにって?」
「ん」
紅丸はひろげっぱなしの腕を揺らして渡せと訴える。
「なんだ、紅丸の応援に来てたのか」
「そうだよ」
「ちゃうやろ」
壁にすがってぜいぜいと肩で息する男がいた。
「よおロバートじゃないか。試合見たぜ、さすがだな」
「おおきに。それよりも、なんやこれは。貧血やゆうて来てみたら、姫がいなくなったて聞いて、転んで動けないいうて、ほんでこの状況。まあ、無事ならええわ。はあ、びっくりした。…もっとびっくりしてもうたやつが駆けずり回っとるやろうから、とりあえず呼ぶわ」
ロバートが電話をかけはじめた横で、
「おい、テリーってば」
紅丸がしびれを切らして腕を揺らす。
「降ります」
とテリーの腕の中からも小さな声がした。
「そうか。でもなんだか顔色が悪いぜ」
「もう大丈夫です。服をありがとう」
ジャンパーを返して、はブラウスの襟元を握りつぶした。
足の感覚はないのに不思議と歩けた。
医務室まであと少しだ。「転んだところは痛くない?」と紅丸が手を貸してくれた。
ロバートの電話の相手がここへたどり着く前にすべてもとどおりにしないといけない。さもなくば、誠実なひとだから、きっと生真面目に罪悪感をかかえてしまう。
「つながらんなあ」
うしろでロバートの声が聞こえた気がしたが、急に聞こえなくなった。
足は動く。



「つながらんなあ。ったく、リョウのやつ、どこを走り回っとるんや」
「リョウとも知り合いなのか」
「兄さん、これ、折れてしまっているけど一応を渡してくるよ。ジョーもそれ」
「そうだった」
二人はを追いかけ、折れた杖と端末を持って医務室に入っていった。その壊れっぷりにロバートは眉を顰める。
「どういうコケかたしたんや」
「リョウの知り合いか」
二度目尋ねられ、
「ああ。リョウの連れや」
「そうか。じゃあ、リョウに言っといてくれ」
「うん?」
「今日は優しく抱いてやれって」
「なに?」
テリーは笑っていない。
「妙な輩に乱暴されてた」
ロバートは目をみはり、きつくつむって、やがて長いため息を吐き出した。
「…わかった。けどあの子が言わんのやったら、いまのは聞かんかったことにするわ」
「リョウのガールフレンドじゃないのか?」
「まだ胸も揉ませてもらっとらん」
ロバートが小さく苦笑したとき、医務室のほうが騒がしくなった。



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