が目覚めると、そこはホテルのベッドの上だった。
雨の音が聞こえる。
いまは何日の何時だろうか。
分厚いカーテンが壁一面の窓を完全に覆っていてわからないが、夜にしてはカーテンの上からこぼれる色が部屋の中よりも多少明るいように見えた。
枕元で充電ケーブルにつながっていた端末を手繰り寄せたとき、画面のあかりで腕に点滴を刺したあとがあるのを見つけた。医務室で意識が途切れてから一時間後、というわけではなさそうだ。端末の下には誰が置いたのか、雑誌ニュートンがあった。
端末を起動すると、あれから二日後の日付と午前4時13分。
痛恨であった。
いつのまにか新調された端末に届いていたいくつかのメッセージのうち、ほとんどはユリ・サカザキからだった。なにかあったのだろうかと開いてみると、
さんがはやく元気になるようにかわいい写真いっぱい送っておくね。ユリっちの動物のお尻フォルダが火を噴くぜ!」
メッセージに続けて、小動物のお尻の写真が8つも連なっていた。
ふっと頬から力が抜ける。
ほかにはロバートと紅丸、長兄、次兄、父、執事のラーベナルトまでメッセージをくれていた。リョウからはただ一通だけ。

“具合がよくなったら何時でもいいので連絡をください”

受信日時は一昨日の夜だ。
キーを叩きかけてやめる。
起き上がってミネラルウォーターを流し込むと、体に染みわたっていく感覚があった。
ノックをして黒い服を着た女性が寝室に入って来た。ロバートが手配した世話係だ。どこかに人感センサーでもついているのかもしれない。
「おはようございます」
「おはよう。朝早くにすみません」
「私どもは三交代制です、どうかお気になさらずに。医師は下の階に控えておりますが」
「必要ありません。お帰りの車を用意してさしあげて」
「それでは、お食事をされますか」
「シャワーを浴びます。食事はまだ結構です」
「かしこまりました。お着替えを用意いたします」
「頼みます」
がベッドの下に脚を垂らすと、世話係がカーテンをあけた。
外は厚い灰色雲に覆われ、本降りの雨だったが、足元や調度品の配置がわかる程度には明るくなった。
窓際に三脚付きの天体望遠鏡が置かれているのを見てはっとした。
「兄が来たのですか」
年の離れた長兄はが入院すると必ず、手ずから病室に天体望遠鏡を持ってくる。
妹がまだ10歳のころ、宇宙飛行士になりたいと言ったのをずっと覚えているのだ。その妹は念願かなって大学で天体物理学を学んだが、フィールドワークができずにことごとく単位を落とし、通信工学分野に切り替えて卒業している。それでもなお、兄にとって自分はまだ10歳の妹なのだろう。
「昨日お見えになられましたが、すぐ、昨晩のうちに発たれたそうです」
「そうですか。…なにか言っていましたか」
「いえ、私どもは承っていませんが、ロバート坊ちゃまとサカザキ様とは会食をなさったようです」



兄は彼らを傷つけるようなことを言いはしなかっただろうか。
シャワーを浴び、新しいブラウスと青いスカートに着替えてから、はしばらく窓のそばの椅子に腰かけて雨の街並みを見つめていた。
大切な大会中なのに関係のないことでひどい迷惑をかけてしまった。心配もさせてしまっただろう。
時計が朝5時を指してもはメッセージを返せずに、雨がたたく窓に額を押し当てていた。
きっとまだ眠っていると、すわりのいい言い訳があった。
ホテルの前の公園を、大雨の早朝だというのにたったひとり、走っている人の姿がある。
窓の外を見つめはじめたころからいままでずっとだ。
とても真似できない。
脚を見るのが嫌でまぶたを落とす。胴着を着てなにごとかできた気になっていた自分の姿が恥ずかしくよみがえり、また薄く目をあける。
周回するランナーの姿を機械的に目で追っているうちに、その走り方に見覚えがある気がしてきた。
ホテルのペントハウスからの視界だ。
しかも雨にさえぎられている。
見えるはずはない。
天体望遠鏡が視界に入り、KOF観戦のために用意したオペラグラスのことを思い出した。






あれこれ考えて眠れず、居ても立ってもいられずに雨の中ランニングに出た。
KOFで毎回書かされるプロフィールの特技欄に「どこでも寝られること」と書いていたけれど書き変えなければなるまい。
防水のウェアを着、フードまでかぶっても顔に打ちつける雨は避けられなかった。
しかしいつもとは違う刺激があったことはいっそよかったとリョウは思っていた。走っている間、余計なことを考えずに済んだからだ。
最初に音を上げたのはシューズだった。
水を吸って重くなり、踏み出すたびびゅうびゅうと泥水を噴き出すようになって、観念してホテルに戻った。
屋根のある車寄せの隅で防水ウェアの上を脱ぎ、ジッパー付きのポケットに入れていたタオルで水滴をぬぐっていく。ロバートが手配してくれたホテルだ。きっとなんとかいう星印がいっぱいついているに違いない。そんなホテルにびしょ濡れの姿で入る気にはなれなかった。
明け方に 車など一台も来そうにないのにピッと前を向いて立っていたドアマンが、リョウに気が付くと、リョウとホテルの中に何度か視線をやってやがて走って来た。
「サカザキ様」
名前を憶えているとは、さすがになんとかいう星がいっぱいついているホテルのドアマンだ。
「申し訳ない、きちんと拭いて入りますから」
「いえ、中で殿下がお待ちかもしれません」
「でんか?」
まぬけな顔で首をかしげてから、その首をビッと正位置に戻してホテルの中に駆け込んだ。
エントランスをくぐった吹き抜けの下にがいた。
車椅子だった。
泣きそうな心地になる。
「…具合はもういいんですか」
「すっかり良くなりました。ご心配をおかけしました」
「そんな…」
「…」
言葉に詰まったきりになったふたりを見かねて、車椅子の後ろに立っていた黒服の女性が咳払いをした。
「畏れながら、すこし早いですが朝食をご一緒されてはいかがでしょうか」






星がたくさんついているホテルの最上階はすごかった。
シャツにウニクロのカーディガンといういでたちで足を踏み入れていいのかためらう。
エレベーターを出た正面に、ユリなら3秒で割ってしまいそうな繊細なガラス細工の裸婦像があり、抱えた水瓶から流れ落ちる水はエレベーターホールに噴水を作っていた。

通された先、テレビで見るような、あちらとこちらの椅子が何メートルも離れているテーブルだったらどうしようかと思っていたが、部屋の大きさのわりには白いクロスのかかった丸テーブルはこじんまりしていた。
食事はリョウに気をつかってか、和朝食がずらりと並んでいる。
「わ、豪勢ですね。うまそうだ」
「たくさん食べてくださいね」
「いただきます」
リョウは一度部屋に戻ってシャワーを浴びてはきたものの、熱い味噌汁を飲んだら腹がほっと落ち着き、雨でだいぶ体が冷えていたことを知った。
黒服の女性は、リョウには緑茶を、には白湯を出すとそれきり姿がみえなくなってしまった。
は優雅な笑みを顔に張り付けている。
雨の音とリョウが動かす箸と食器の音だけが聞こえる時間がしばらく続き、

「あの」

という声は同時だった。
顔を見合わせ、
「どうぞ」
が言い、
「どうぞ」
とリョウが言うと、は椅子の上で背すじを伸ばした。
「試合に勝ったとうかがいました。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「…大切な大会ですのに、ご心配をおかけしてしまって申し訳なく思っています」
「心配しました。よく眠れないくらい」
「あぁ」
短く切ない声をあげうつむいた。
「でも今日からはよく眠れそうです。あなたが元気で楽しそうにしているのが一番いい」
が笑えなくなったかわりに、リョウが笑って見せた。
「だから、俺とデートしてください」
はたとまばたきしての顔があがる。
「KOFを楽しみにしてくれていたから、俺はちゃんとあなたを楽しませたい」



昨日の午後のことだった。
の長兄がやってきた。
突然の国賓レベルの来客に、ホテルとガルシア家の関係者は大いに動揺したが、とほぼ同じ顔をした長身の男はまわりの騒ぎには眉一つ動かさず、昏々と眠る妹を見舞った。
その後、長兄、ロバート、リョウの三人で、この朝食よりもはるかに緊張感のある午後の茶会が催されたのだった
長兄は無口で、ロバートは緊張で紅茶を三杯も飲み、悄然としたリョウは一杯目に口をつけない。
5時間のような5分が過ぎたころ、白磁と思われた頬がようやく動いた。

「あれは誰にでも愛想よく笑うが」

と言い置き

「公務を除いて、我が妹はやりたくもない空手に通うほど愚かではないし、行きたくもない格闘技大会のパンフレットに付箋を貼るほど工作好きでもない。あれの想いを見くびって、すべて自分が誘ったからいけなかったなどと、そんな不遜な後悔をいだくような男ならば、私は交わす言葉を持たない」

まだ何も話していなかったが、何もかもを見抜かれていて、たしかにリョウは返す言葉を持っていなかった。
だがこの言葉こそいま、リョウに道を示したのだった



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