明日の試合に向けてチーム龍虎の組手にも熱が入る。
しかし、休憩に入ると途端にトレーニングルームの隅で体育座りして膝に顔をうずめる男がひとり。

もう二度との身を危険にさらさない。その決意を持ってバーについて行ったのに、あの体たらく。ロバートからテリーとは何もなかったようだと聞いて命拾いしたが、もう嫌われてしまったかもしれない。紅丸のことだってあんなに心配して…いや、こんな考えではいけない。こんなことをぐじぐじと考えている暇があったら、ふさわしい男になれるようにいっそう努力すべきだ。そうだ!それしかない。…しかし、もう二度との身を危険にさらさない、その決意を持ってバーについて行ったのに、あの体たらく。

力強く拳を握ってあげた顔を、膝の中に戻した。
この動作を繰り返すリョウを遠巻きに見て
「弱そうな龍やなあ」
「明日の試合もあんな調子だったらホントにさんに嫌われちゃうよ。それに明日はお父さんも観に来るって言ってるんだから、師範代取り上げられたって知らないんだから。あ、そしたら私がなろうかな」



リョウの不安とは裏腹に、夕方ホテルに戻って汗を洗い流したころ、のほうからリョウの部屋のドアを叩いた。
スコープから杖をついた姿を見、風呂上りの格好から大急ぎでTシャツとスェットを着こんだ。
「差し入れというのを持ってきたんです。」
そう言ってホテルのロゴマークが入った小さな紙袋を差し出してきた。
「どうしたんですか、急に。ここまで一人で?」
「応援する相手には簡単に食べられる贈り物をするものだと」
応援する相手、その言葉がリョウの胸にかかっていたもやを、わずかに溶かす。
「昨日テリー様が教えてくださって。お口にあえばいいのですが」
「…」
「今日はゆっくり体を休めてくださいね。それでは」
「もしよかったらもう少し一緒に」
口から飛び出した言葉はもう取り返しがつかない。












リョウは、どう見ても移動させることを想定した造りでない重厚な一人掛けソファを部屋の奥からひょいと持ち上げてきて、の横に置いた。がじっと見上げると困った顔をする。
「どうぞ」
「…ありがとう」
で、男の部屋にはじめてひとりで入って、背徳に似た胸の高鳴りを覚えながら腰をおろした。
リョウはごそごそと戸棚をあさる。
「お茶をいれます。たしか紅茶のパックがこのあたりにあったはず。あ、いや、パックはさすがに。そうだ、ルームサービスが」
「どうかお気遣いなく。…やはりお暇しますわ」
あすの午後、リョウは試合を控えている。今日は心身を整えることに集中させてやるべきだとは考えた。差し入れの作法をいま少し学んでから来るべきだった。
「待って」
立ち上がりかけたが
「ください」
腰を戻す。
リョウを焦らせたのは嫉妬であった。その自覚はあって、口下手がいっそう下手になる。
短い沈黙すらも絶えられないという様子で、リョウは電子ケトルを持ってはや足で洗面所に向かった。
またはや足でケトルを持って戻ってくると、さては洗面所の鏡で自分の身なりを見たのだろう。
「すみません、こんな格好で」
派手なライムグリーンのTシャツには「空手」と日本語がデフォルメされた文字が入っている。は首を横に振った。
「ラフなリョウ様も素敵です」
「わっ」
重厚なソファに足を引っかけ、リョウは前に向かって倒れ込んだ。
「リョウ様」
「あの、いえ、申し訳ない」
に水をかけまいと、とっさにケトルを抱え込んだ代償がリョウのTシャツを盛大に濡らしていた。「はは」と引きつった顔で振り返ったリョウだったが、のスカートからもボタボタと大量の水滴が滴っているのを見て、青ざめた。

悲愴な顔で、タオルと一緒に未使用のパジャマのズボンを渡された。
「こんなものしかなくて」
「これは…!パジャマですね」
は思いがけずうれしくなった。
「ずっと着てみたかったんです」
「え?パジャマを?」
「用意されたナイトガウンしか着たことがなくて」
本当にうれしくて場違いに明るい声を発してしまったが、惨憺たる空気が思いがけず緩んで、よい結果を得たとは思った。
ひとまずほっとしたの目の前でリョウが平然とTシャツを脱ぎ始め、今度はが動揺する。こんな時ばかり、リョウはの赤面に気づく様子もない。
リョウがスェットのズボンのうえにボタンと襟のついたシャツを着こみ、がブラウスの下にパジャマのズボンをはいて向かい合ったら、おかしくて互いに笑いがこぼれた。
「よし、今度こそお茶をいれます」
「いただきます」
差し入れのクッキーがソーサーにあけられ、無事ケトルが二人分のお湯を温め始める。
リョウはベッドに腰かけた。
「いつもはわたくしが転んでリョウ様が助けてくださるのに」
ふふ、とさっき笑い合った余韻がこぼれる。リョウは頬をかいた。
「あなたがびっくりするようなことを言うから」
「服のことです?本当にそう思ったんですもの」
「また…。それじゃあ、その…、あなたはいつもかわいい」
くすぐるような褒め言葉をかわすのは、の方がうまかった。肩をすくめてパジャマを引っ張る。
「きっとこのパジャマがかわいいのですね」

ケトルの湯が沸き、二人分のカップにそそがれた。
「熱いから気をつけて」
「ありがとう」
「もしかして、ティーバッグの紅茶も」
「はじめてです。最近はじめてのことがたくさんあって楽しい」
そう伝えてから、顔を伏せるために紅茶に口をつけた。
リョウがなにかを言おうとしている予感がしたのだ。
その予感は正しかった。
リョウは琥珀色の湖面と見つめ合って、心の準備をしていた。
かっこ悪い自分を恥じて謝るのではなく、この日々を楽しいといってくれた人に伝えるべき言葉は果たしてなんであるか。
リョウがいよいよ顔をあげ、その眼に真剣なものをみて、は膝の上に手をそろえた。
不躾な着信があったのはその時だった。
無視しようとしたが、いまの静けさのなかでは規則的な振動音はあまりに大きかった。の耳にも届き、
「どうぞ出てください」
「いえ、…」
二人の間に振動音だけが落ちて、しつこい着信にリョウは仕方なくポケットをさぐった。
父である。
我が親ながら間の悪い。頭がいたくなった。
「かまいません」
こうまで言われては出ないわけにもいかない。
しぶしぶ窓際まで歩き、不服を声にのせる。
「…もしもし」

「おお!出たか!」

思わず耳から遠ざけた。電話の向こうの声はとんでもなくうるさい。どうやら騒がしい場所にいるらしい。ボリュームを最小まで下げてもに聞こえてしまいそうだった。
に完全に背を向け、窓の一番端まで寄って小声で返す。
「なんだよ」
「いまこっちに着いたところだ!おまえたちのはなんてホテルだったか、どうだ夜に飯でも!」
「ちょっと声が。飯はひとりで好きに食べてくれ。俺たちも試合前だし」
「ははぁ?そんなことを言って、さては女と一緒にいるな!」
ぎくりとした。声にあらわれないよう注意をはらう。
「なに言ってるんだ」
「聞いたぞ、大会に彼女を連れてきてるらしいじゃないか。俺に隠し事はできん!」
「もう切るから」
「さてはあのムエタイの娘っこだろう!よくやった!あれほどの実力者なら立派な極限流の跡継ぎを生めるに違いないっ!」

通話を切った。

電源も切った。

目に、沈む夕陽の最後の閃光がまともにはいった。

振り返ると、色のにじむ視界のなかでは微笑を湛えていた。
ちがう
「俺が好きなのはあなただ」
「リョウ様」
かえったのは告白を無視した、厳粛な声音であった。
おもむろに立ち上がり、杖なしで歩いた。
クローゼットとベッドの間のスペースに立ち、
「見ていてください」
足を前後にひらいた、前屈立ちの構えだ。
左足にも力が入っているように見えた。
「どうでしょうか」
リョウがポカンとしていると、
「できていますか」
二度目の声に、にしてはめずらしく焦れたような色があった。
「…できています」
「よかった。動ける日は毎日あなたのお手本の動画を見て練習しているのです」
左足が慎重に床から離れた。
右足を軸に腿を引き寄せ、ぴたりと止める。
足技の途中と見えたが、左ひざから先はいつまでたっても蹴りだされない。
すぐに蹴って構えにもどるよりも、片足立ちでいるほうが大変だ。体幹を鍛えねばこうはできないだろう。
やがて軸足がぶるぶる震えてきた。
ついに左脚は蹴りだされることなく、静かに床に戻って来た。

できる予定だったのだろうか。

うしろから両腕で抱きしめると、の身体がびくりと震えたのが直接伝わってきた。
「なにを」
「いとおしくて」
「いいえ」
の声は揺らぎ、髪を振り乱した。
「いいえ、いいえっ、うまくできないから、可哀想におもっているのです」
両手で顔をおおってしまった。
できないことが多すぎて卑屈になるのに飽いたと言った妖精の王の嘘はいま暴かれ、暴いた男はこともあろうにいっそうその腕に力をこめた。
「いまあなたが完璧な龍虎乱舞を決めたとしても好きです」
真っ赤になった耳がかわいくて唇を寄せる。
は身をもみねじって抵抗したが、にくらしいかな、相手はKOFのファイターだ。
「あ」
という間に体の向きを返されて、リョウの顔がちかづいた。
「見ないでっ」
の悲鳴に、リョウがぴたりと止まる。
とっさの声は、目の前の男ではなく、カメラ越しに監視しているだろう者たちに向けたものだった。が、「触らないで」とか「やめて」のたぐいだと思ってしまった男がいた。
けなげとみえた肢体に突如として絡みついた色気にあてられ、ここまで勢いがついてしまったが、生来まじめで誠実な男だ。
細い肩を掴んだまま、うごけなくなった。
そのリョウの顔にちらりと目をやり、そらし、うつむく。
「…続きを、してくださらないの」

プツリ

と映像が途切れた。
サングラス越しに画面を見ていたK'が、無言でマキシマを睨んだ。



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