シンドバッドは肩をおとし、いたく悲しげにコンポートを食べている。
一方、カレーうどんをいただきながら、は(少しやりすぎた)と反省していた。
講堂で慎みのない態度をとられたから、自分の仕事を軽んじられたように思い怒ってしまった。
それで、中央市ではあんな目立つような歩き方をして。
シンドバッドは誰かが懸命に取り組むものをバカにするような人ではない。
古い付き合いだ。
わかっているはずなのに。



私が過剰に反応したのがいけない。

食べ終わったら、ふつうにもどろう。



そう心に決めた。
しかし、食事を終え、ふつうにもどるタイミングをはかっていたのテーブルにレストランのオーナーがやってきた。
彼によれば中央市に王にそっくりの観光客がいるという噂がたちはじめたらしい。

「ふむ、これでは出られないな」

シンドバッドは手にしていた果実酒を静かにテーブルへ置いた。
中止、だろうか。
つぐないの機会は失われてしまった。
は小さく肩を落とした。

「残念ね・・・」
「残念?」

シンドバッドは意外そうな顔をした。
はそのシンドバッドの顔こそ意外で、小首をかしげる。

「まさか、俺がこんなところで諦めると思ったのかい?」
「え」

シンドバッドはどこからか皮の水筒を取り出して、テーブルの果実酒をドップドップと水筒に注ぎ込んだ。
手のひらを上げオーナーを呼びよせる間に、の横にあったクリスタルの水差しを掴んで、別の水筒にドップドップ注いだ。
テーブルクロスに派手にこぼれていたのでは布巾をさがしてオロオロした。

「3番、いや5番のカギを」

シンドバッドがオーナーになにやら指示した。

「かしこまりました」
は梨を持って」
「な、梨?」
「はい」

シンドバッドは飾ってあったフルーツカゴから梨をひとつ取って、困惑するの手のひらに握らせた。
息もおかず席を立つとスタスタと厨房のほうへ歩き出してしまって、はあわてて後をおいかけた。
厨房の奥、煉瓦造りの階段からシンドバッドは地下へ降りていった。
ヒナホホサイズの酒樽が横倒しに並ぶ蔵に辿り着き、なかでも一番大きな酒樽の前でようやく歩みを止めた。
暗くて寒い。

「シン、なにをしているの」
「デート」
「それはもう」
「あきらめる?」

どうして不敵に笑うのだろうか
自信たっぷりに
自慢するみたいに

「俺はあきらめない」

太陽みたいに。



酒樽の蓋についた蛇口をつかんで、「扉」をあけた。



巨大な酒樽の蓋のむこう、暗い暗いトンネルは明らかに酒樽の奥行きを越えて続いていた。
中に入ってシンドバッドが入り口の蓋を閉めると、いよいよ何も見えなくなった。
一寸先に足元がないかもしれない。
それほど真っ暗闇だ。

コツコツコツコツ

しかもシンドバッドは勝手に進み始めてしまった。
はシンドバッドの服をせめて掴みたかったが、大きな梨が右手にあって叶わない。久しぶりに左手がないことを不便に思った。

コツコツコツコツ

石を踏む靴音だけ聞こえる。
シンドバッドが昔してくれた話を思い出した。
仲間と入った暗闇の洞窟で悪い精霊が仲間の靴音だけ聞かせ奥へ奥へと招きいれ、やがて人間をたべてしまう。
人喰い洞窟。

「ねえ、シン」

コツコツコツコツ

靴音が響く。

「あの、待って」

コツコツコツコツ

靴音だけ。

「シンドバッドッ」

いるはずの場所に腕を伸ばしたが空を切った。
足が震え、ついに立ち止まる。

コツコツコツコツ

は止まったのに、靴音だけ同じ距離で聞こえ続けた。
総毛立つ。

「・・・っ」

わななく唇から声がでなくなったかわりに、涙がこみあげた。
その瞬間、
足元にシンドバッドのつむじがパッと現れた。
の真下でうずくまり、脱いだ靴をコツコツと石に打ち付けていた。
明るくなったことに気づくや手を止めて「あ、ヤベ」と顔を上げる。
人喰い洞窟の正体を見て、気づいて、理解した瞬間、シンドバッドの口に梨のつぶてが押し込まれた。






「いやあ、ごめんごめん」
「バカ!」

のあらぶる右手がシンドバッドの胸をゴンゴン叩いた。
泣かされかけたのがくやしくて、は顔を見られまいと下を向いて殴り続けた。すると

「ごめんね」

などと急におちついた声で言ってしっかと抱きしめるのだ。
その安定感に、体温に、恐怖という名の強張りがじわじわ溶ける。

「悪い精霊の仕業と思った?」
「・・・」
「思ったんだ」
「・・・思っていません」
「思ってないってさ。カストルは精霊失格だな」

シンドバッドは、「上」に向かって笑いかけた。
はシンドバッドにしがみついたままバチっと目を開く。
離れないでおく。
そういえば、びっくりしすぎて忘れていたが、



さっき

きゅうに灯り

ついた。



洞窟の左側の壁だけ、燃料不明の青い炎が等間隔に消失点まで続いている。

「ポルックスの我慢強さを見習うことだ。もっとも、可憐な女性が泣きそうになっていたら、先に明るくしたカストルのほうが紳士的でモテるふるまいだと俺は思うがね」

すると、右側の壁にも正体不明の青い炎が等間隔についた。

「シンドバッド・・・だ、だれと話して・・・?」

「精霊」

はそこでパッタリと意識をうしなった。
は恐ろしい場所や怖い精霊の話はシンドバッドからたくさん聞いていたけれど、実際にそれらを体験したことはほとんどゼロに近かったのである。












***



目をあけると、左が眩しかった。
丸くて大きな光のなかに黒い影がひとつ、シンドバッドの背中。
その向こうはまるごと青空だった。
よく似合う。
そして眩しい。

まぶしい

「落ち着いた?」

いつのまにかシンドバッドがこちらを向いていた。
は横たわる自分の下に、シンドバッドの日除け布が折って敷いてあることに気づいた。岩肌に直接寝ては痛いから。
起き上がり、シンドバッドのそばまで進む。

「ここはどこ?」
「秘密の洞窟さ。“3番、いや5番”のカギで入れる。間違っても“5番のカギをくれ”と言ってはいけないよ。5番は地獄行きの洞窟だからね」

シンが腰掛ける洞窟のおわりは、空中だった。
見下ろすと、はるか下に木々の緑が見える。果樹園だろうか。
どうやらここは、絶壁の岩肌にポツンとあいた穴らしい。下から見たら、岩肌のでこぼこの影くらいにしか見えないだろう。
レストランの地下からこんな場所に通じているなんて。

「すごい・・・」

下に見える緑は大きな木だろうか。小さな木の連なりだろうか。
縮尺がまったくわからない。
覗き込むと、足元の小石がパラ・・・と落ちた。

「こら」

服のはしを引かれる。

「あんまり覗き込むと吸い込まれてしまうよ」
「こんなに高いところははじめてで」
「息をする谷のはなし、したろ」
「・・・シンドバッドはこんな景色をたくさん見てきたの?」
「もっと高いのをいくらもね」
「すごい、すごい・・・!」

興奮冷めやらぬまま、洞窟の終わりに膝を抱えて座った。
思いつき、シンドバッドを真似て足を宙に投げ出してみる。すると、後ろ襟を引っ張られて、洞窟の側に戻された。
なぜ戻されたのかわからずにいると、シンドバッドは

「危ない」

と言った。
真面目ぶって、自分ばかり大人ぶって見せたその顔の奥に本当はハラハラしてしまったことを押し隠している。
は気づかなかったことにして、おとなしく足を洞窟内にたたんだ。



「ジャーファルみたい」

大きな背中は、小さく呟いた言葉をひろった。
そして、ずいぶん暗くすねた。

「・・・なんで」
「空中庭園の囲いから足をぶら下げていたら、怒られたの」
「なんで」
「あぶないって」
「ちがう。なんで、デート」

七海の覇王は己の嫉妬深さの吐露をきらって、それ以上は何も言わなかった。
見てもいない景色を向く人の背中は、さっきよりも少し小さくなったように見えた。
しばらく静まる。

「ただのおでかけです」
「ジャーファルはそうは思わないだろう」
「なにもなかったわ」
「酷なことだ」
「そう」
「そうって」

シンドバッドが思わず振り返る。
は細心の注意をはらって揺らぐ心を腹の底におしこんだ。
シンドバッドの目は強いから、見ないようにまつげを伏せる。

「なにも起きないようにしたのだもの」

本当に残酷で傲慢な振る舞いをした。
ジャーファル、家族のように愛している。けれど決して恋ではない。
ジャーファルは好きだとか、愛しているとか、そういうことを口に出しては言わないから、もまた口に出さずに伝えた。

「・・・カレーうどんで?」
「葱たっぷりの五目そばで」
「もし、無理やりキスをされていたら?」
「“おやすみのキスね”」
「唇を吸われたら?裸にひんむかれたら?」
「かなしいばかり」

突然指が触る。
はっと目を開いたとき、シンドバッドの黄金の双眸は間近にあった。

「俺とも?」

は言葉を紡ぎあぐねた。
制すために動ける右手はいつまでも動かない。
あまやかな許しを得たシンドバッドがさらに近づき、しかし直前で「ごめんなさい」とは苦笑した。

「さっき怒ってカレーを食べてしまったから」
「俺カレー好き」

言葉は速やかにかわされ、なに一つ迷わないくちづけがおちてきた。
“おやすみのキスね”ではとてもかわしきれない。






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