「船で行って間に合うのだろうな」
ひそひそと話す声、
焦燥している。
シェハラザードは黒秤塔の蔵書にうもれた木卓で目を覚ました。
講義の後、講師用の控え室で本を読んでいるうちに居眠りをしていたらしい。
ろうそくはとうの昔に終わり、窓からの景色はうす紫色をしている。
もう明け方。
シェハラザードは目と耳以外の一切の器官を停止した。
「むこうにまともな医者はいないのか」
「あやしげな呪術師ばかりで」
「いいから典医をたたき起こせ」
「いや、事は内密にと将軍の指示がある。陛下の大事が知れれば混乱をまねこう」
複数の早足が遠ざかっていった。
完全に音がなくなるのを待ち、蔵書の山の中から立ち上がる。
駆けた。
***
海を越えシンドリアよりはるか南西
シンドバッドは迷宮で大怪我をした。
しかし見事迷宮を攻略し、新たなジンの精霊クローセルとともに宿営地へと帰還した。
若い武官たちをかばって負った傷だ。武官たちはシンドバッドの寝台の足元に膝をにじり寄せ、大粒の涙をこぼして謝った。
そんな若者たちを見、シンドバッドは天井を仰いでワッハッハ!と大声で笑った。
「ぜーんぜん平気だって!実はさ、俺魔力で傷ふさげるんだ。ほら、見ろ」
と言って武官たちの顔を上げさせると「ムンッ!」と自慢の上腕二等筋を見せつけた。
若い武官たちはぽかんと口をあけてこれを食い入るように見た。
深く抉り取られたはずの患部が一すじの傷痕を残してきれいに消えているのだ。
「グッとくる筋肉だろう。おまえたちもこれくらいを目指しなさい。あ、行き過ぎてマスルールみたいになるなよ。あれだと服がキマらん」
「へ、陛下・・・」
「どうどう。心配してくれてありがとな。のわりに元気ですまんな!ゆっくり休みなさい」
「さあ、みなさん」
ジャーファルは、グズる彼らをシンドバッドの天幕の外へ促した。
彼らをほかの武官に任せると、ジャーファルはひとり飲み物を持って王の天幕へ戻ってきた。
すると、さっきと打って変わって横たわっている
「あぁ・・・ジャーファル」
横たわるシンドバッドの声は小さくかすれていた。
血を失いすぎて青ざめた顔に、頭痛でもするのだろうか、手のひらをあてている。
「大丈夫ですか、シン」
「なんとかなるさ・・・」
口の端がわずかに笑った。
ジャーファルは聞こえないようにため息して、寝台の横に水を置いた。
「昨晩ドラコーン将軍が救援を頼みに本国へ向けて発たれました」
「いらん騒ぎは起こすなよ?」
「将軍に限ってそれはないでしょう」
「うん。できる男だなあ。あとシェハラザードに言うな」
シンドバッドはからから笑った。イテテと痛がる。
ジャーファルはじっと見て、袖をあわせた。
「・・・シン。シンドバッド王よ」
「んー?」
「武官をかばったこと、その行いはとてもあなたらしい。けれどもうしないでください。もしそれでもどうしてもかばいたい時には私にお命じください」
真剣なジャーファルの言葉に、シンドバッドはしばらくの間ジャーファルとまっすぐに視線を交わし
「やだ」
と言った。
ジャーファルのこめかみに青筋が浮く。
それをシンドバッドは笑ってのけた。
「おまえの気持ちはうれしい。けれど俺は守りたいものを守りたい。許してくれ」
受け入れたくなくて、ジャーファルは唇を一文字に引き結び眉根をよせた。
頑なになったジャーファルにシンドバッドは「俺はね、ジャーファル」と子供に物語をきかせるようなやさしい調子ではじめた。
「案外大勢殺しているのだよ」
「・・・それは、あの戦争のことをおっしゃっているんですか」
「それもあるが・・・考えてごらん。シェハラザード以外に俺の古い馴染みを知っているか」
知らない。
ジャーファルはシェハラザードより古いシンドバッドの友人を知らない。
「シェハラザードの次に古いのはおまえかもしれない」
シンドバッドの唇の端が笑うかたちを作った。
本当はしゃべるのもこたえるのだろう。
ジャーファルは耳を塞ぎたい心地がした。
シンドバッドはいつだってジャーファルの偉大な主だ。
その主はいま弱音を話そうとしているのではないか。
(私には聞ける度量などないのに)
主君の悲しみを見て、立ち尽くし困り果てるだけしかできない、きっと。
殺す術に長けても、人をおもいやるとかつつむとか、そういう心の力に欠けていることは自覚している。
だから怖い。
「船旅で同じ釜の飯を食った連中は死んだ。俺は命からがら板切れにしがみついたから生き残った」
「無人島に取り残された連中は死んだ。頭から大蛇に丸呑みにされたんだ。俺は大蛇の口より太い木の幹をあたまに括りつけたから生き残った」
「海獣の島も息をする谷も迷宮も巨人の島もこなみじんの岬も、ロック鳥のときもそうだった。懐かしいひとはみな死んで、俺だけ生き残った」
指折り数え、シンドバッドは途中で両手を強く握り締めた。
「シェハラザードは死ななかったけれど、とんでもないことになってしまった」
「わたしは生きています」
「本当に嬉しいよ」
それだけは、ジャーファルの好きなシンドバッドの声だった。
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