「先生も一服いかがですか」

留学生たちに連れ出された商館で、寝不足でぼうっとしていたところに何かさしだされた。
下戸だと言って酒は断っていたが、差し出されたのは水煙草だった。
商館のものだろうか、あるいは水煙草のパイプを差し出す褐色の青年の私物だろうか。

「煙草を吸ったことがないから」

やんわり断るも留学生は食い下がる。

「トゥッファーハのイイ香りがしますよ、こちらの言葉で“りんご”ですね」
「先生も試しに」

ほかの面々はがぼうっとしているあいだに試したらしい。

誰かが言う。
「無理にすすめるのはよくない」
誰かが言う。
「国王陛下がおっしゃる異文化への理解ってやつさ」

唇のそばへ金色の華奢な吸い口が寄せられた。
水煙草の瓶は色ガラスで出来ていて、商館の妖しげなあかりにさらされると人間をたぶらかす魔物の眼のようにひかった。



吸い口を軽く唇ではんで、ゆっくりと吸い込む。



まったく判断力の欠如としか言いようがない。
あまい香りがあった。
味はよくわからない。
おいしくはない。
ながめに吸ったけれどたいした感慨はなかったので、唇をはなした。

「どうですか」
「ええ・・・あぁ、今になってくらくらしました」
「気分が悪く感じるのは最初のうちだけですよ、慣れたらそれがクセになるんです」

あかるく話す青年の声があたまに反響した。
みるみるうちに目のうえが重くなる。
気持ち悪い
額に手をあてたとき、世界が暗転した。
とおくで呼ばれた気がした。












***



目が覚めると、いかにもいやらしそうな部屋のベッドの上だった。

同じ部屋の椅子に背の高い男がひとり腰掛けていた。
一瞬スパルトスかと思ったが、違う。
今日いたなかの留学生のひとりでササンの出身と聞いている。は彼に教える立場にはあるものの、年齢で言えば彼はよりも年上だ。成績優秀、紳士的で、女官たちに人気があると聞いている。
は飛び起きて、自分の衣服を確かめた。
着ている。

「具合はいかがですか」

一体何から口に出せばいいのか。
状況がつかめない。
歩み寄ってくる。
は手近なシーツを胸にかきよせた。

「ご心配なく。私は国王陛下の特命であなたの警護をおおせつかった者です」

「・・・シ・・・陛下の」

うなずいた。
複雑な心地がした。
ケンカをしてから半月、一度も顔を合わせていない。
彼は、シンドバッド王が心配をしているから無茶をしないようにと、丁寧な言葉でに説いた。
シンドバッドの性格なら自分で乗り込んできそうなものだけれど、そうしなかったのだから向こうも複雑な心境なのかもしれない。

「慣れないものに手を出すときはご用心ください」

倒れたのは水煙草に手をだしたせいではなく単に寝不足がたたっただけと、そう反論できるほどこのササンの青年とは親しくなかった。また、いずれにせよ胸を張っていえることではない。は力なく従順にうなずくほかなかった。






帰り道で、授業もシンドバッドの命令で出席しているのかと尋ねると、彼は否定し今宵ばかりの特命だと答えた。
すこしほっとした。

「先生にこんなことを言っては失礼かもしれませんが、あなたは熱心なよい先生だと私は思います」
「ぁ、ありがとう、ございます」

不意をつかれたので言葉がうまくでなかった。

「努力家でいらっしゃる」

このズバっとした物言いはササンの国風に違いない。
なまじ年上だけに、どう返すべきか困った。シンドバッドの人選ミスではないだろうか。
ササンの青年は穏やかにたたみかける。

「つらい思いもされたでしょうに」
「いえ、そんな」

困ってあいまいに返した。彼は深い事情を知らず、ただが隻腕で、女の身で教鞭をとるまでの苦労を自由に想像して情の深い言葉をくれたのだろう。自分とシンドバッド以外、全ての真相を知る者はない。

「私の国ではね先生。身体の一部を失った者は哀れみを買うことを考えます。みなうなだれ俯いて、路地で砂に汚れた足を投げ出している。だから不思議なんです」

そこで青年はを見た。
目が合うとふっと微笑う。

「あなたは高潔で美しい」

手のひらが差し伸べられた。
本当に、人選ミス。

心にふと浮かぶ。

シンドバッドではない人に恋をするということ
分相応な相手と、誰の目もはばからず気負うことなく寄り添うこと。
そうしたら、もうまぶしさに目がつぶれるような思いをすることはない。
そうしたら、“偉大な王”を見上げて必死にミントをかみ締めもがく夜は終わるだろう。
そうしたら
そうしたら・・・?



王宮をあおいだ。
星がきれい。



「・・・私が下ばかりを見ないでいられたのは、友人のおかげです」

言葉がこぼれる。
手は取らない。

「古い友人で、いつも一人でどこかへ行ってしまうんです。ずっと先の、上のほうへ。その人を見上げて、置いて行かれないようにふさわしくなれるようにと、ずっとそればかり考えてきました」

最初に外国語と数学を学び始めた理由もそう。
助手になりたかった。

見上げる。
努力して笑う。

「なにひとつうまくいっていないけれど、見上げた形のまま首が固まってしまってどうしたら今から別の方向を見られるのか、わからないのです」

ササンの青年は静かに手を下ろして、彼もまた努力して笑ったのだと思う。

「それは残念です」






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