筆を握る形をした手から筆がこぼれ落ちた。
力尽き、机につっぷして眠ったことにも気づいていない寝顔に影が落ちる。






目を開けるとシンドバッドがいた。
月の青白い光の色をしている。
目だけは、宝石みたいに。

「まだ眠って」

ササンの青年のときと同じように、はベッドから飛び起きた。

まともに顔を合わせるのはケンカ以来初めてだ。
服は着ていた。しかし髪は互いにほどけていた。
さっきまで翻訳をしていてでも今はシンドバッドとベッドにいて、
髪をほどいた寝巻き姿のシンドバッドは色っぽくて、
しかし恐らくなにもいやらしいことはなくて
ただ同衾を
謝らなくては
何を
いやお礼を
なんの

混乱を自覚し、はともかくシンドバッドと一旦距離をおこうと考えた。
ところが、膝をさげた先にベッドがなかった。

「あっ」と後ろへ傾いて
「ぶない!」とシンドバッドが飛びついてきて

ゴトトトン

鈍い音が夜の部屋に響いた。

床に落ちはしたもののはたいした痛みもなく床に座っていた。一回転くらいした気がするのだが。
そのかわりに、やや離れた床の上でシンドバッドが

「うおおぉぉおお、背中いてえええ」

ビッタンビッタンのたうちまわっていた。
一瞬の出来事でわからなかったけれど、どうやらシンドバッドが衝撃をうける身代わりをしてくれたらしい。

「「平気?!」」

声が重なった。

「「そっちこそ!」」

音が止まる。

が先に息をもらして笑った。

「な、なんで笑うんだよ」
「だって、シンいま背中いてーってじたばたしてたのに、急に言うから」
「別に痛くなかったんだ!」
「うそ」
「うそじゃない。俺は君とちがって丈夫にできてるからあれくらい」
「ねえシンドバッド、いまのもう一回やって」
「やらない!・・・なんだよ、幼馴染のピンチに駆けつけたのに」

シンドバッドは床にあぐらをかいてすね始めた。
ピンチとはなんのことを言っているのか。

「・・・別に私、なにも困っていないわ」
「それこそウソだ。シンドリアからミントの葉を全部摘みとる気か。ちゃんと寝ろ」
「寝ているわ」
「机でな」

すっかりバレていて、言葉が詰まる。
しかしそんなつっけんどんに言われては反論せざるをえない。

「か、勝手に見ないでっ」
「君が出しっぱなしにしていたんじゃないか」
「勝手に部屋に入ったくせになんでそんな偉そうに言うの」
「偉そうに言うさ!王様だからな」
「・・・っ」
「え」
「・・・っ・・・っ」
「え、え」

歯を食いしばった。
シンドバッドが明らかにひるんだのも見える。
けれどこっちも
こっちも
くやしい。
目の前があつい水であふれた。

「知ってる」

言葉が出たら涙もおちた。

「シンドバッドが王様だって知ってる」

「だから私は頑張らなくてはいけないの」

「あなたはずっと先にいる」

「死に物狂いで走らないと追いつけない」

見えなくなってしまった。
恥ずかしくて腕を目にあてた。
涙とまぶたの向こうの世界がふっと暗くなった。

シンドバッドの抱きしめる作法は手馴れていた。
けれど背にまわされた手がおもいのほか強かった。
しぼられるようにみずみずしく痛い。
素直なほかにとりえはない、利口な術を見つけられなかった無力な指。

「じゃあ、これからずっと・・・一緒に眠ろう」

小さな声だった。
ひとつの言葉を言うたび、次の言葉を考える不自然な沈黙があった。

「俺は寝てるとき走ってない。寝てるよ」

不器用だけれど心地のいい声だった。

「眠る時間だけ唯一、君を置いて、とおく、先にいくことはないんだ。一緒にいるんだ」

腕がゆっくりとゆるむ。
体がはなれる。
太陽のように笑うはずのシンドバッドが、無理やりに笑い顔をしてハンサムぶっていた。

「これで安心して眠れるね」

慰められているはずが、慰めたい心地になった。

「・・・ええ、シンドバッド」

慰められるために、慰めるためにうなずく。
シンドバッドはうれしそうに笑った。

「じゃあ寝よう」

ふたりでのそのそとベッドに戻る。
シーツを肩までかけて向き合う格好になった。
目が合ったけれど、シンドバッドは惜しまず目を閉じる。
もならった。






「背中、痛くない?」
「ちっとも」
「シンドバッドは強いのね」
「感情こもってない」
「でもかっこいい」
「・・・ありがと」
「ごめんね」
「ごめん」

おやすみと言ったら、おやすみと返った。
静かになった。
安心して、心と体はベッドに溶けこむようなのに、不思議と眠たくなかった。
こっそり片目をあける。
すると、ちょうどシンドバッドもこっそり片目を開けたところで、ひとしきり笑った。
どれくらいぶりか夢も見ず深く眠った。






さすがにシンドバッドと毎日同衾するわけにはいかなかったけれど、はミントの乱獲をやめた。
部屋は極端に荷物が少ないことで悪名高い元の姿にもどした。
よく学び、よく教え、よく眠るよう努めた。

一年経ったころ、七日のうち三日は黒秤塔で留学生に教え、三日は集会場で子供たちに教える生活に戻った。
は(腕は欠けているものの)健康的で美しかった。






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