煌帝国へ発つ日取りは一ヵ月後に決まった。
様子がおかしかった理由を確かめに行かなくてはと思えども、官吏たちはその余裕をあたえない。
とうとうと読み上げられた出立までのスケジュールはすべて読み終えるまでになんと二時間を要した。

「ふむ、ジャーファルよ」
「はい、シン様」
「俺の予定はマチュピチュ遺跡をイメージして組んだのかな?」

一ヵ月後までびっしりと、隙間なく予定が書き込まれている。
「何卒ご理解ください。バルバッドの一件で滞った分をとりかえし、なおかつ煌帝国訪問中の国事を前倒さなくてはいけないのですから」
「だがなあ、これじゃあ」
「ご安心ください。これはあくまでも予定です。中止になる会議や会合はいくらもあるでしょう」
「ふむ、それもそうだ」

そのとき、文官が身を低くして入ってきた。

「失礼いたします。お話し中申し訳ございません。先ほど煌帝国皇帝宛の書状ができましたので、お検め願えますでしょうか」
「ああ、ありがとう。確かめるよ」
「ははっ」

シンドバッドに手渡すと、文官はまた身を低くしてシンドバッドの執務室を出て行った。

「とまあこんな具合に、多少は割り込みもあるでしょうが」
「なるほどな」

煌帝国への書状を確認しながら深くうなずく。
この一ヶ月は忙殺の二文字に尽きるであろう。

「どうぞご辛抱ください」
「やるべきことの分別くらいはつくさ。ところでジャーファル」
「はい?」

ピラ、と書状のおもてをジャーファルに向ける。

「読めないんだが」
このように、思ったよりも早く済むことよりも、思ったより長くかかることのほうが多いもの。
ジャーファルははあとため息を落とした。彼ら文官もまたシンドバッド以上に忙しい日を送ることになるのだろう。

「通訳ができる者を呼んでまいります」

しばらくして、煌帝国の植民地出身の官吏をなんとか見つけ出し、執務室へ連れてきた。
別の国同士の交流を奨励しているとはいえ、シンドリア王国は新興国家だ。
知識と経験、実績をかねそなえた官吏の層は厚くない。

「シン様、通訳を連れてまいりました」
「わ、私ごとき若輩が陛下の通訳なんて恐れ多いことでございますが、精一杯陛下の・・・国王陛下?」

緊張でガチガチになる若い官吏とジャーファルの視線の先、執務卓に王の姿はなかった。
歯軋りしたジャーファルの背に大蛇の幻影が立ち上る。

「・・・あの野郎」












***



先生。さきほどの講義で質問があるのですが、よろしいでしょうか」

アルテミュラの留学生を快く招き入れた。
講師の控え室兼教材物置は奥まっていて、人が出入りする書庫や講義室からは死角になっている。
申し訳程度に明りとりの小窓がついているがたいした光量ではない。一方でアルテミュラ人の笑顔は十代の少年のように輝いた。
見た目で油断してはいけない。彼の実際の年齢は二十代半ば程であろう。二人きりで、いつマチガイが起こってもおかしくはない状況なのだ。

「あの、これ。よろしければ」

留学生はテキストを開く前から、かわいらしい包みをに渡した。はい、来ました。まずはジャブのご機嫌取り。

「中央市で人気のあるドライフルーツ屋のマンゴーなんです」

マンゴー!?いやらしいったらない。
、お断りなさい。

「ありがとう。では一緒にいただきながら。質問はどこ?」
「は、はい。あの、わからないのは、この文法のところで」

美白で有名なアルテミュラ人がなに顔赤らめとんのじゃーい!

「ここ?」
「そこです」
「ここは」

近い!
近い!
早くはなれなさい。でないとアルテミュラ男子の自制心がくずれるぞ。あの距離は絶対においかいでる。

先生っ、俺ッ、実は」

早いな自制心くずれるの!

「先生のことがっ」

ココン



「失礼」



背を預けていた本棚を軽くノックし、ゆったりと笑みをたたえるのは、シンドリア国王、シンドバッドそのひとであった。つうか俺だ。

「シ、シンドバッド王!」

出入り口はひとつしかないはずの控え室に出入り口を介さず国王が魔法のように現れたのだ。
二重三重に驚いて、留学生は慌てて立ち上がり拱手を組んだ。
まで静かに立ち上がって、片手の拱手をした。
手のひらで立礼を制し、アルテミュラの美青年に顔をむける。

「すまないが、先生をお借りしてもいいかな」
「は、ははァ!」
「ありがとう。先生、あなたは煌帝国の文字を読めるだろうか」
「はい、陛下」
「そうか。それはよかった。彼の国の皇帝宛の文書だ。礼を失することがあってはいけないからあなたに添削と翻訳を頼めるだろうか」
「光栄に存じます。御意のままに」



留学生がこちらを気にしながらも早足に離れていく音を確かめて、俺は語調を王からバカに変えた。

「このドライマンゴーは俺が全部食う。いいね」
「一度にたくさん召し上がってはおなかがゆるくなります、陛下」
「”シンドバッド”」
「シンドバッド」
「ああいうの、よくあるのか」
「みんな勉強熱心ですから」
「変なことされたりしてないだろうな」
「考えすぎよ」
「きみが考えなさすぎなんだ」
「考えているわ」
「考えていないよ」

の可動スペースを狭くすべく壁に手をつく。

「よく鏡を見てごらん、君はきれいだ」

困惑の色をみせた。
そういう顔がいけないんだ。
においたつように艶かしい。
手籠めにして壊してやりたい残酷な衝動に駆られる。

「先生なんて禁欲と破戒衝動を駆り立てる象徴じゃないか、いやらしいことを考えない男がいるものか。言っとくがな、講義中に君であらぬ妄想をもよおして抱いた気になっている連中は五万といるぞ。俺が生徒なら毎回四回はグエ」

俺のすねをカン!と蹴ってすり抜け、背もたれのない椅子に戻っていった。
書状をあらためはじめる。
真剣な瞳は怒っているようにも見えて、これ以上ちょっかいを出すのは憚られた。



夜のこと
どう切り出したらいいだろう。
はじっこに積まれていた揃いの椅子をひとつ取ってきて横に座った。
こんな距離でじっと見られたら気が気じゃないだろうに、は頑なに書面から目をはなさなかった。
また怒らせてしまった。

「・・・」

むかしは
並んで座ったら、ずっと俺のことばかり見ていたのに。

シンドバッド、どんなぼうけんをしてきたの
すごい
すごい!


・・・七海の覇王が書状に嫉妬とは。
ため息を隠して天井をみあげてみると、巻物や紐綴じの書物が塔みたいに天井まで積みあがっている。

「これくずれたらあぶないな」

手のひらで背表紙をなぞる。
刻印されたタイトルは

「・・・読めん」

一個上の本のタイトルはまた別の言語らしく読めなかった。その上はタガログ語で、そのうえは漢字、そのうえは読めなかった。
休みの日は留学生たちに教えを乞うているとヤムライハから聞いていたが、これらの言葉もそこで学んで読めるようになったのだろうか。
知らないことが増えていく。

俺が思っていたよりずいぶん人気もあるようだし。
子供はまだしも、留学生は国籍、年齢、性別もさまざまだ。彼らに好意を持たれることは容易ではない。
腕の欠けた女教師がモテていれば叩く者だって大勢いるだろう。本人の口からそのたぐいの話を聞いた事はないけれど、そういうことがあるとは耳に届いている。
隠しているのか気にしていないのか、ともかくそんな素振りは見せないからこっちは慰めることもできない。
どちらかというと、今にも殴りに行きそうなジャーファルをなだめるほうが大変だ。

かつて暮らした屋敷で、人との接触をおそれ俺の後ろに隠れていた頃の印象が大きいだけに、いつからこんなにも親和的に、そして強くなったのか不思議だ。
いつから、と記憶の糸を辿っていく。



・・・あぁ。

領主のひとりむすめのは、貧しい少年シンドバッドと友だちになったじゃないか。



もとからそういう人だったのだ。
そのうえ異国の言葉を知り理解することは、異なる文化を知り、理解すること。

俺はそういうひと、すきだ。





ペンは紙のうえをはしりつづける。

「俺はいまから君にはじめて出会ったとしても君を好ましく想うとおもう」

ペンがとまった。
動きだす。
文字の形がきゅうに不揃いになった。
お、体は素直に耳まで赤い。

俺はあの夜のことを尋ねる必要はないとおだやかに知った。






来た時と同じ隠し通路から戻るとジャーファルに軽く怒られて、早足に寄ってきた女官たちに身なりを綺麗にしてもらい、同盟国使者との謁見に臨む。
玉座の間で、使節団は神様でも見たように感激し絨毯にかしずいた。
俺は偉大だが寛大で、どこか気さくな王として振る舞い、王の言葉を紡ぐ。演技ではない。偽りなくそう振舞い、しかし玉座の裏ではかわいい幼馴染の姿を思い出す。

なんと不十分なことだろう
バルバッド王よ、俺はまだあなたに教えを乞いたいことが多すぎる。






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