突然、髪がはなされた。
膝からちからが抜け、冷たい石壁伝いに土に落ちる。
粘つく汗が頭の全周から流れ出す。
路地のむこう、細く伸びるまばゆい光へ這いずり出なくては
動けない。
どうしてだろうかと後ろを見ればくずれかけた石碑があり、その向こうに木立がならび、木立の上に屋敷の屋根が見える。
ごうごうと炎をあげている音がする。
爆ぜる音がする。
怒れる人の大きな声が。
領主を探す無数の足音が。
革命の夜だ。
鼓の音、心臓が同じ速さで慟哭する
見知らぬ男たちが左腕を土に縫いとめた。
ゆっくり振りあげられた金属が一度にぶくひかった。
「みせしめだ」
眼球がこぼれるほど目をむいて、
やめて
おねがい
やめて






「落ち着いてください」

肩をゆすられてビクリと体が跳ねた。
革命の火が消えた。
をともしたのはやわらかなランプの灯。映し出された顔は、
・・・マスルール
声にならなかった。

「手を放してください」

手と言われ、左手を見るがいま、ああ、ああっ、斬りおとされた
マスルールの手がぬっと伸びて、の右手を左腕の断片から離させた。
大きな手からは想像できないほど繊細にはたらく指だった。
タタタと水が落ちる音がした。
土の黒がいっそう黒くなる。
右手はの意思とはほとんど無関係に丸くなった左腕に爪を突き立てていたのである。
今度は慌てて血が滴る腕に右手のひらをあてた。
手に感覚が戻ってきた。
熱い、ぬめる血が、鉄のにおいが気色悪い。

「なにが」

あったのかを聞きかけて、マスルールの鼻がすんとなにかをかぎ分けた。
路地の闇の方向を睨む。
やめて

「マスルール」

気づかないで

「ごめんなさい、驚かせてしまって」

まわりにもわかるほど歯がガチガチなったのは好都合だった。
マスルールは向き直り、こちらが優先と認識してくれた。
は苦笑し、汗で張りつく髪をなでつけて体裁をつくろった。

「申し訳ないのだけれど、肩を貸してもらえますか」

肩を貸すと宙ぶらりんになるからと、マスルールにしては丁寧に抱き上げてくれた。
マスルールは、シンドバッドが呼んでいるから探しに来たのだといった。
この格好で王のもとへ行っては、まわりの人を驚かせてしまう。一度王宮に戻ってもいいだろうかと尋ねると、マスルールはそのとおりに、隠し通路から王宮まで送り届けてくれた。

「シンさんに」
「言わなくても大丈夫」
「・・・」
「落ち着いたら私から言います。だからどうか、いまは何も言わないで」






マスルールはこの願いをきかなかった。
を部屋に戻してから、主にすべてを報告した。
彼の主はではない。












***



謝肉宴の翌日から、授業は通常どおり行われた。
今日は集会場での授業の日だ。
手本を真似て、無地の紙に同じように書いていく。紙は今期からはじめて予算を割いてもらえるようになった貴重なものだ。
目に見える収益のないこの授業では、紙一枚、チョーク一本の確保さえ苦労がつきまとう。生徒達は苦労を知ってか知らずか、しかし紙は貴重なものと知っているから間違えないように慎重に書いてくれている。感慨深いことだった。

ひとりが手をあげた。

「もう書けたの」
「先生、しつもん」
「どうぞ」
「アバズレってなに?」
「外でね、おじさんが先生はアバズレ女だって言ってたよ」
「なァ、先生ィ?」

ハッと目が開いた。

先生、もうすぐ授業ですよ」

を呼んだのは、豊かな白いひげをたくわえた年配の文官だった。
魔法力学の講義を担当している。長いとんがり帽子がトレードマーク。

「ほほ、お疲れですかな?」

柔和な笑みを向けた。
この狭い講師控え室ではその長すぎる帽子が天井にぶつかって先がペコンと曲がってしまっている、見慣れた風景。

「す、すみません・・・教えてくださってありがとうございました。行ってきます」

逃げるように控え室を出て講義室に飛びこんだ。

「遅れてしまってごめんなさい」

雑談を交わしていた受講生たちが一斉にこちらを向いた。

「ぁ・・・まだ、少し早かったかしら。鐘がなるまではゆっくりしていてください」

いま目を恐れた。
自意識過剰だ。
教卓で用もないのに資料を検める。
手当てした左腕が不快だ。
ここは一年中暑いから膿んだのだろうか。
かきむしりたい。
見たくない。

悪夢が続く。
しかし日常が続く。

跳ねるように目を覚ますようになった。
きまって息がひどく乱れている。
心臓が、目、涙、こわい



、大丈夫か」

今度覗き込んだのは大人のシンドバッドだった。
いたく心配そうな色をたたえている。
しずかな藍色の夜だ。
革命の夜ではない。
シンドバッドがいる。
大丈夫。

「ひどくうなされていたよ」

半分めくれかけていた左袖をさりげなく毛布の下に隠しながら体をおこした。
腕を見られては暴かれる。
はにこりと笑った。

「ごめんなさい。大丈夫。こわい夢を見て」
「ハハッ、いつかの俺みたいだ」
「ところでどうしたの、こんな夜更けに」
「この前の返事、君は酔っ払って部屋に直接帰ってしまって聞けなかったろう」

謝肉宴の

「けど、悪夢からさめたあとではタイミングを間違えたかな。出直すことにするよ」

一週間たってもなにもなかった。
穏やかな日常が過ぎていく。

ひとりが手をあげた。

「先生、しつもん」

ビクリと震える。

「タガログ語でありがとうってなんていうの?うちにお客さんがきてるんだ」
「...Salamat.大人の人にはMaraming salamat po」



十日を待たず、黒秤塔での講義中に倒れた。






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