日中いっぱいをかけての港の視察がようやく終わり、夕日がすっかり沈んだ時分にジャーファルは汗だくになって王宮にもどった。汗を拭いてから王へ報告にあがると、執務室はもぬけの殻であった。また逃げたんですかと女官に尋ねて、そこではじめてジャーファルはシェハラザードが倒れたことを知ったのだった。
豪快に裾をまくって緑射塔へ続く回廊の屋根を疾走した。
あっという間に駆けつけると、ちょうどシンドバッドがシェハラザードの部屋から出てきたところだった。
「シン、シェハラザード様はっ」
「ジャーファル。すごいカッコだな」
「ご病気なのですかっ」
「心配ない、いつもの貧血だって」
ジャーファルにはいつもの貧血だって心配でならない。ドアノブへ手を伸ばした。
シンドバッドの手が「王様の鍵」をかけた。
息を止めた。それは、敵意や殺意を感知したときのジャーファルの古い悪癖であった。
シンドバッドはニッコリ笑う。
「ダーメ。いま眠ったばかりだ」
「そ、そうでしたか・・・、でも、ご無事ならよかったです」
「本当におまえはシェハラザードに対して、アレだなあ」
「どれですか。ほら、部屋の前で騒いではシェハラザード様が起きてしまわれます。執務室に戻りましょう」
紫獅塔に戻る途中、シンドバッドは中庭にいたマスルールのもとへ行き何事か指示をした。
マスルールはうなずくと紫獅塔とは反対方向へ走っていった。回廊で待っていたジャーファルが尋ねる。
「なにを頼んだんです?」
「ああ、シェハラザードが楽になるようにな。プルーンを頼んだんだ」
翌朝、ジャーファルがシェハラザードの部屋へ大皿に盛ったレバニラ炒めを届けに行くと、シェハラザードは目を丸くした。
“泣きはらしたような目”を、丸くしていた。
「どうしたのです、ジャーファル。こんなにたくさん」
「・・・レバニラがたくさん採れたもので」
王は偽った。マスルールは二日経っても戻らなかった。
***
ジャーファルは私室へ戻るシンドバッドの後ろをついて歩いた。
シンドバッドは部屋の門番二人に「下がれ」と短く命じた。ジャーファルが居残ると
「仕事か?」
と背を向けたまま尋ねた。
笑うような語尾だったが、顔は笑っていないのだろう。
「いいえ」
「・・・ならいい」
暗く広い部屋でシンドバッドは強い強い酒を次々あけた。
ともる燭台はシンドバッドのそばと、ジャーファルのそばにあるただ二つ。
ジャーファルは扉の近くにひっそり立ち、マスルールの居場所を尋ねた。
返事はなかった。
ジャーファルは息をとめた。
「なあ、ジャーファル」
シンドバッドではないような声がした。
王の手が蝋燭の火を握りつぶし、姿が闇に消えた。
声だけが続く。
「シェハラザードと俺の故郷がどうして消えたか知っているか」
「お二人が別の土地に移られてしばらくしてから、反乱が起きたと」
「俺がそうなるように仕向けた」
シェハラザード以外に俺の古い馴染みを知っているか
「そう言ったらおまえは信じるだろうか」
案外大勢殺しているのだよ
「俺が成した最初の血の革命だ」
「シン、あなた何を」
恐る恐る呼びかけた声に返事は返らない。
ジャーファルは王のそばへ駆け寄り燭台をかざした。
椅子にシンドバッドの姿はなかった。
***
「答えなさいマスルール!」
真夜中、王の消えた紫獅塔にジャーファルの怒声が響いた。
密命をうけたはずのマスルールが帰還したのである。
長身のマスルールの甲冑を引っつかみ、床にねじり倒した。
突っ伏したマスルールの首に細い紐が巻きついた。
「シンはどこにいる!」
敵意をむき出しにしてもマスルールの沈黙は揺らがない。
これは王の居場所を黙せと命じられている。
ならば黙せとされたこと以外は躊躇いなく吐くだろう。
刃を握り、引き絞った。
「言え。なんの命令をうけた」
「謝肉宴でシェハラザード様を襲った男を捕らえよと」
マスルールの首にあった紐が不意にゆるんだ。
呆然として二歩、三歩と後ずさった。
「なぜ」
「・・・」
「なぜ殺さなかった・・・!」
予想していなかった言葉にマスルールのまなじりは裂けんばかりに見開かれた。
「私たちの手はなんのためにあるっ、シンに人殺しをさせる気か!!」
こいつには 意思がある
この国の王族、王政に関わった人間を皆殺しにする 革命の意思
それだけは、させてはならない
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