0110 : オルガ





次に会ったとき、女は一瞬俺を見て顔を明るくしてそれから笑い顔で口を開いたまま停止した。
視線が俺から離れてうろうろして床に落ちた。
俺を呼ぶなと、言われたとおりにしているらしかった。
下を向いて困ったふうに白い指先をからめていた。



「オルガでいい」

女の前を通り過ぎながら言って、俺は椅子にどっかと腰をおろした。
硬い椅子だからケツが痛かった。

「オルガ。よかった、オルガオルガ」
「用もないのに呼ぶなよ。うぜーな」
「ごめんなさい。でもあの、どう呼んでいいかずっと考えていてそうしたらクロトが
名前がだめなら苗字で呼べばいいんじゃないのっていいアドバイスをくれて」
「全然いいアドバイスじゃねえし」
「いま、オルガが入ってきたときに苗字でよぼうと思ったらクロトが教えれたのに
度忘れをしてしまって。ナップザックね」
「サブナック!オルガ・サブナックだ。それくらい覚えろ」
「そう、そうだわオルガはオルガ・サブナック。覚えたわ」
「ふん」
「最近覚えていられないことが多くて」
「・・・」
「昔のこととかたくさん忘れてしまうの。オルガはそういうのない?」

俺は黙っていた。

「私は昔大きなお城のような家に住んでいたのよ。でももうどんな家だったか
覚えていないの。天井の高い大きなお城のような家だったはずなのだけど」

「俺も、忘れて、く」

目を見て言えなくて俺の視線は床に転がった。
どうでもいいことなのにどうすればいいのかわからなくなる。

「まだたくさん覚えているの」
「けっこう」
「たくさん忘れてる?」
「わりと」
「そう。そうなの。かなしいこと」
「別に。でもなんかこう、むかつくっていうか・・・知らない」
「さびしいことね」

女は呟いて、俺が目を見張ったのを見つけて一瞬苦そうに笑った。
そうしてすぐに「大丈夫」とオレに声を投げた。
俺は昨日なにがあったかを忘れるのを寂しいなんて思ったことはなかったから
なにいってんだこいつ、と驚いただけだったのには何を思って大丈夫、なんて
声をかけたんだろうか。そしてまた「オルガ・サブナック」と呼ぶんだろうか。

「何度もフルネームで呼ぶな」
「オルガ」
「っなんだよ」

はいつものとおり柔らかく笑うのに神妙に見えた。
声の調子がいつもより落ち着いているせいだろう。
俺は逆に気圧されている感じがして落ち着かない。

「もう覚えたからきっとわすれない」


ブザーが鳴った。


『0090、中に入れ』

無機質で陰気で本当に腹の立つ声が響いて白い扉が開いた。
白いおっさんがの腕を引っ張った。強くだ。
俺は無意識にバッと立ち上がっていた。
俺が立ち上がったのに気付いて白いおっさんが数人振り返る。
白いおっさんは俺を睨み、俺は白いおっさんを睨みつけた。
扉が閉まる前にが、俺をなだめるようにこっそり小さくピースを作ったから笑えた。





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