一ヶ月ぶりに行ったら、すごかった。

「ひばり けいたい かいたい」
「買えば」

途切れ途切れだが妙に耳に残るリズムで言われた。これが涙目の第一声。
もう少し「どこへ行っていたの、心配したんだから!」的セリフを言われるかと予測していた。
わけはわからないがとりあえず定位置の黒革の椅子にかける。
するとドサドサっと膝の上に携帯電話のカタログがのせられた。
10冊以上ある。

「重いんだけど」
「雲雀は携帯持っているでしょう。私も持ちたい」
「好きにすればいい」
「今日、今、一緒に買いに行ってほしいの。いますぐっ」

はベッドのシーツをぎゅっと掴んで身を乗り出した。下の瞼がぷくりと腫れている。ノロノロした話し方の
が珍しく早口だ。下瞼から目をそらしてベッドのシーツを握る手のあたりを見ると、力んだ手の甲の
薄い皮膚の下、血管が見える。

「なんで」

もう一度目を見て雲雀は尋ねた。
病室はいつもと変わらず穏やかで、南向きの窓は白いレースのカーテンで強い日差しをやわらげて、
26度に設定された冷房、加湿機。ここに完全な安定を見るのに。

「だいじょうぶ?って電話をかけるんだよ」

は口角をあげて笑って見せたが頬がひきつっていて、精一杯というふうだった。

「だから雲雀は大丈夫って言って、ね」
「バカだね君。僕が大丈夫じゃないなんてあるわけがない。だから携帯なん」
「雲雀がいつも大丈夫なら私はいつもそう言われて、心配しないで安心して眠れる」

携帯なんていらないだろ、と続けようとした言葉の口の形のまま雲雀は停止し、しばらく人より綺麗な
顔の人を見ていた。雲雀はコテンと首をかしげる。雲雀が自覚しているよりかわいらしい仕草になって
いたのだが、本人は気づかない。
尋ねたいことがあった。

「寝てないの?」

は眉を八の字にして困ったように俯く。

「し、心配してとかじゃないの。雲雀がいないと誰とも話せないから全然疲れなくて」

慌てて取り繕って言ったけれど雲雀を心配していないのならどうして雲雀を心配して安心して眠れて
いなかったことを口走ったのか。

ばかじゃないの
ばかだ


「で」
「え?」
「外出許可、とったの?」

言いながらカタログの山を椅子の上に置いて立ち上がった。が呆けたように視線を持ち上げる。
彼女が身体を前に傾けると、立ち上がった雲雀の視点から胸の輪郭が見えた。

「行ってもいいの・・・?」
「暇つぶし」
「てつ、手続きしなきゃ」

がベッドから飛び出しそうになったのを止めて、雲雀は先にドアに手をかけた。

「大人しくしてないと許可でないと思うけど」

は「あっ」という顔をして肩まで毛布を持ち上げた。目だけで雲雀の出て行く姿をたどる。

「雲雀」

毛布越しの声に振り返る。

「だいじょうぶ?」
「大丈夫に決まってる」

は毛布を鼻の上まで持ち上げて、枕に顔半分をおし付けた。どこから入った演出かわからないが
嬉しそうに雲雀を見た瞳が光をもって潤んでいた。

「言っとくけど今日は行かないから」
「え」
「暑いしめんどくさい。あと君、顔、変」

バシンと思いのほうか大きな音を立てて部屋の扉は閉じられた。
廊下に出た雲雀はナースステーションで外出許可を申請する前に、風紀が乱れたのでトイレに寄った。






ショパン「別れの曲」
夕方5:30のテーマがかかる中、病院を出て右へ曲がり二つ目のコンビニを右折、病院を右に見ながら
住宅街の歩道をまっすぐ行けば10分で家に着く。それほどの距離にいながら互いに知り合おうとする
努力をしたことはほとんどないから家の場所など知らない。電話番号も、下の名前すら知っているか危うい。
(必要ないし、聞かれても教えないしね)

翌日、とケータイを買いに行った。車椅子を押すのは初めてだ。
町並みの中にを見るのは初めてで妙な感じがした。あと、見たことないワンピースを着ている。

「そんな服、いつのまに買ったの」
「通販。病院の売店で通販雑誌が売ってて」

言いながらもはきょろきょろ落ち着かない。案の定、目にうつるものあまねく全てに興奮した
熱を出すまでに2時間もかからなかった。
その2時間の間にケータイを買って、病院に戻り保護シールをはがすまではの頭がはっきりして
いる内にできた。

「教えるのめんどくさいから説明書読んで。君、本読むの好きでしょ」
「・・・」

声は返らなくて、ベッドに横たわったまま頭だけがもぞ、と動いてうなずいた。
瞼がおちかけている。
片手はケータイを握ったまま動かない。

「電源くらい入れたら」

もぞ、と頭だけがうなずく。
起動音はいつまでたっても聞こえない。パタとケータイが手から落ちて、指先の筋肉まで震えだしていた。

はまだ一人で歩こうと思えば歩けるし、トイレもシャワーも自分の下着の洗濯もしている。
いつかできなくなるという。
人間はよぼよぼのしわくちゃになったらみんなできなくなるけれど、は成人までに足だけでなく全身
そうなるという。
先天性なんとかなんとか症候群というらしいが、小学校の時に聞いた話だからもうよく覚えていない。
しかたなくの親指をとって、電源ボタンを長押しさせた。
やたらと明るいサウンドで起動したケータイの電波は三本。そういえば

「病室ってケータイ使ったらダメなん・・・」

寝てる。
ショパン「別れの曲」、夕方5:30のテーマが聞こえてきた。
の手を掴んだままだったのでベッドに置いた。
手を置いたあとに、小学校の頃からプリント、ノートを渡し続けて見慣れていたはずのその手が異様に
小さいことを知った。

(病気だ)

と雲雀が判断した手の大きさの差異は単なる男女差であることに気づかぬまま、雲雀は黒革の椅子に
深く身体を預け、少し眠ることにした。

静かだ。
性差に気づかず、同じ部屋に眠ることのできる二人の水面は未だどこまでも静かだ。






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