マルクト軍第一研究所は王宮に隣接する。
一応の所長はいるが、組織図で言えば管轄長は「ジェイド・カーティス少佐」と記されている。
私は軍養成学校ではなくもともとここの出身であり、この研究所で数々の技術理論を確立させた。
薬品臭いエントランスもブーツの響く廊下も執着はないが、人間と言うのは案外ささいなことを覚えているものだ。かつて遺骸を運び込んだこともある第一級立ち入り禁止区域に足を踏み入れてそう思った。
ここの陰鬱な空気を覚え続けていた。

「おや、物理学に興味がおありですか」

は夕方の独房で明かりもつけずに、窓際の椅子にかけて窓からの西日で黒い背表紙の本を読んでいた。
見覚えのあるその本は、もう10年以上前に私が書いたものだ。
文字の羅列からゆっくりとこちらへ視線を移した。
全く、美しい。

「ジェイド・カーティス少佐」
「名前を覚えていただいて光栄です。三ヶ月ぶりですが元気そうでなにより」

扉を開けて出るよう促す。
独房といっても鍵は掛かっていない。譜業認証装置のない区域ならばこの研究施設内を自由に歩き回ることができるようにしてある。この管理体制で問題が生じていたら私は今頃少佐ではなかったかもしれないが、三ヶ月間ついに何も起こらなかった。
本にはさむ栞がないらしく、ページを覚えるように指でなぞってから本を閉じた。
所作は静かだ。

「本を持っていってもよろしいでしょうか」

美しいが微笑むこともしない。子供のように動揺することも無い。冷静というよりはぼんやりしている。

「結構ですが、読書の時間はさしあげられませんよ」
「返却時間が17時30分までなのです」
「では先に返してから行きましょう。こちらの話はテラスを使います」
「ありがとうございます、少佐」

やはりぼんやりした様子で、ひよこのように従順についてきた。
資料庫の年配の司書は、私を見るなり「ひっ」と悲鳴をあげた。
その後ろから(どう呼ぶべきか)が出てきたのを見ると
ちゃん」
と呼んだ。

「ありがとうございました。また借りに参ります」
「あ、ああ。またおいでね」

ちらちらと死霊使いをうかがいながら、司書は少女には苦笑いを向けた。
報告どおり素行は善良らしい。



三階の高さまで吹き抜けとなっているテラスは、研究用植物園に臨む側が一面ガラス張りになっている。
背の高い植物が適度に夕日を遮っているので眩しくはなかった。
テラスには椅子とテーブルがいくつか等間隔に並んでいて、研究者達のリフレッシュの場として使われている。
・・・いや、使われていた。
私が入ってくるなり、皆こそこそと、素早く荷物をまとめ、飲みかけのコーヒーを持って出て行った。
死霊使いの噂は、人払いの手間が省けて便利なことだ。

「好きなところにかけてください」
「はい」

一番窓際の真ん中の椅子にかけたのを見届けて、セルフサービスコーナーからコーヒーを二つ用意して戻る。
彼女は両手を膝の上にのせて静かに窓の外を見つめていた。
窓外を見つめることは彼女の“趣味”と報告されている。

「さて、早速ですが本題に入ります」
「はい」
「あなたに関する最終報告書が提出され、結果、あなたは我々に敵対する意思がなく、また健康上、思想上からも我が国における生活を営むに問題なしと判断されました。晴れて自由の身というわけです」
「・・・」
「私はマルクト軍最高司令官であるマクガヴァン元帥より、あなたの今後の処遇について一任されています。書類を提出すればあなたの経歴を一部修正した上で、マルクト帝国領に永住することが可能です。生年月日が王暦0年0月0日の職業王様では少々問題がありますからね。それにあなたが希望するならマルクトではなく、他の地域に移り住むことも可能です。その場合、万事自力となりますが」

返事も反応もなくぼうっとしているので、「わかりますか」と尋ねると
「わかります」と淡白に返ってきた。

「よろしい。わからない言葉があれば途中でも聞いてください」

ピオニーもそうだが、王族というのは心根を隠すのがなかなか上手い生き物だ。
何を考えているのか、何も考えていないのかわからない。

「永住することができるといってもあなたの登場はスコアに読まれていませんでしたので、あなたにかけられる予算はありません。私がここで時間を割いているのもサービス残業です。つまりあなたは住む場所も食べ物を買うお金もありません」
「少佐」

私がこの娘の立場なら、勝手に掘り起こして目覚めさせておいて手前勝手に放棄するとは何事かと、憤怒した上でキムラスカに加担し、マルクトを滅ぼすだろう。娘の文句の一つくらいは聞く気になった。

「なんでしょう」
「サービス残業とはどういう意味ですか」
「その話は忘れていただいて結構です。他に質問は?」
「ありません」

なんたる暗愚。
こんな者に迂遠にものを言うのはやめた。
テーブルにパンフレットを並べる。

「軍養成学校のパンフレットです。養成学校ならあなたの年で入学でき、学費はかかりませんし、授業を受けるだけで二等兵として給料が貰えます。その上全寮制で食事も出ます。今申し込めば無料で情報部が作成する偽身上書もつけますよ」

白い手がゆっくりとパンフレットを手に取り、パラパラと眺め始めた。
正真正銘の愚か者なら深く考えずにさっさと食いつきなさい。こんなことは私の職務ではない。

「・・・少佐」
「なんでしょうか」
「手続きはなにをすればよろしいのでしょう」

ぼんやりと、速やかに決まった。
夕日を受けて頬が赤い。手も。

話が早くて助かります。

「命の保証はできませんがいいですね」

私としたことが思った言葉と言う言葉を間違えた。

「はい。・・・ただ」
「ただ?」
「読みかけの本があります。読み終えられないのは残念です」
「あの本でしたら餞別に差し上げます」

大きな瞳が不思議そうに、ぼんやりと見上げてきた。

「私が書いた物です」

読みかけの本に関する要望以外、それから5年間にも渡って彼女の私心を見ることはなかった。



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