軍宿舎に付属する病院の面会時間はすでに終了し、窓の外はとっぷりと夜につかっている。
マルクト軍においてそれなりの地位を持ち、畏怖の対象でもあった死霊使いは帰れと言われることはなかった。

少尉が目を覚ますまでの間ベッドの傍らの安っぽい椅子に腰掛け、少尉のルームメイトが着替えと一緒に持ってきた少尉の“愛読書”を読んだ。
黒い背表紙、著作者はジェイド・カーティス。
5年前に私が彼女に寄贈した物だ。すっかり忘れていた。
参考書にも使えないような尖りすぎた内容のこの本をまさか5年間も所持しているとは正直驚いた。
しかしどうも愛読していたわけでもないらしい。
本は奇妙な書き込みで埋め尽くされていた。
単語の下に古代文字で単語の意味が書かれている。
慣用句に下線、文節に縦線。物理学の学術書を現代言語の勉強に使っていたらしい。
不向きだ。難解な専門用語ばかり使っている。辞書を引いても載っていない造語もあちこち使っている。
翻訳しながら読み進める間にこれは不向きだと気づかなかったのだろうか。
よくこれで養成学校の座学に間に合ったものだ。
けれど久しく人間らしいところを見た。
ほっとした気がするのはきっと気のせいだろう。



「目が覚めましたか」

目を覚まして天井を見つけた少尉は、視界の端に入ったらしい私に視線を移してきた。
いつにも増してうつろなまなざしだ。

「足の速い部下に感謝してください。肋骨骨折による低酸素症を引き起こしていましたので処置が遅れていれば後遺症が残ったかもしれません。」

声は返らない。

「・・・少尉、聞こえていますか」

首がこくんと頷いた。
うなずいたら瞼が閉じた。
本当に聞いているのだろうか。

「あなたは本日付で中佐になりましたが、皇帝の御前で皇帝勲章を持ったまま卒倒するとは無礼甚だし、ということで、不敬罪で中佐から少尉に降格されました。敵国の疫病を自国にひきこんだ、ということではなくてせめてよかったと思いなさい」

つまりまた“少尉”だ。
白い頬である。

「まったく。そんな状態で戦地から帰ってきて普通に歩いていたのが不思議だと軍医が言っていましたよ。自己管理もできない軍人は養成学校の学生以下です。我が第三師団はそのような人物を迎え入れなければならないことを大変遺憾に思います」

長い睫に、形の良い唇である。

「マルクト帝国に愛着があるわけでもないあなたが、そうまでする理由はなんです」

横たわって耳があらわになっているとずいぶん幼く見える。
ああ、もう絶対聞こえていないな、この寝顔は。
ため息混じりに言う。

「あなたの都の人々でも救っている気ですか」

この状態ではなにを言っても無駄だろう。
中佐から少尉になったことは後日改めて伝え直すことにして、今日は引き上げようと枕元に黒い背表紙の本を置く。
ひやりとした。

「たみはぶじか」

本を置いた私の手の甲に指先が触れている。

「・・・わたくしの、みやこは」

麻酔のせいだろう、呂律がまわっていない。
少尉の手の温度は低い。
ワルツの時とは正反対だ。
一瞬見えた気がした眼は、すでに長い睫の奥に隠されていた。

「たみは・・・わたくし、の・・・まもるべき」
「愚かな」

手の甲にか弱く爪を立てられる。
けれど傷を作られることのないまま少尉の指から完全に力が抜けた。
眠った。

「・・・」

意識の無い少尉の冷たい頬と唇に手の甲で触れた私は、同病を憐れんだのだろうか。



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