「ここに受領の署名を」と言い置いて逃げるようにジェイドは来賓室を後にした。

一度執務室に戻って、夕方までいつものように慌しく動いた。
昼食をとるのを忘れていた。
インクがボタリと重要書類に落ちた。
部下の報告の中で一度言われたことを聞いていなくて聞き返した。
頭を冷やしてこようと席を立った時、ポケットの中に鍵が入ったままであることに気づいた。
研究所の来客室
恐らく鬼門

しかし管理されている鍵を持って帰ることはできない。
しかも鍵をかけていない。
(中に人がいるから)






「カーティス大佐、お帰りですか」

王宮を出たところで後ろから追いついてきたフリングス少将は、周りの王宮勤めの人々と同様にお帰りのようだった。外套を羽織っている。
今夜も寒くなるだろう。
「いえ、私は研究所に」
「そうでしたか、いつも遅くまでお忙しいですね。私はお先に」
「ええ。よい週末を」
正面にある夕方の日差しが強烈で少し瞼を落とした。












来客室のノブをひねるとキィと古い音がした。
全開になったままのカーテンのせいで、部屋は容赦なく橙の光線に晒されている。
そこに人の姿はなかった。
帰ったのだろうか。
暖炉の上には服を持ってきたガラスケースと、「署名を」と言って(聞こえる音量だったかはわからない)置いてきた受け取りの証明書が、サインの無いまま置かれていた。
他にソファーが二組、テーブル。動きも乱れもない。
元から誰もいなかったよう。
(そうであったら彼女はどんなに幸いだろう)
愚かな幻想は即座にやめる。

窓にカーテンをひくためにテーブルのあたりまで進んだとき、何か視界に入ってソファーを振り返った。

「・・・」

いた。
寝ていた。
ブーツのまま、“キモノ”を抱きしめてうずくまって寝ていた。
それほど大きなソファーではないというのに、少尉が背を丸め膝を胸に引き寄せてしまえば見事におさまっていた。
夕日を向いているのに眩しくないのだろうか。

ジェイドはカーテンを引く目的を思い出して、足音を立てずに両サイドから遮光・遮音のカーテンをひいた。
そこでようやく昼間から天井の明かりが付けっ放しになっていたのだと気づく。

顔を“キモノ”にうずめ
“キモノ”はくしゃくしゃ
軍服もしわがつくのは避けられない。
少尉の長い髪はほどけてソファーの下にまで届いている。
いつも綺麗に結い上げていたから気づかなかった。

「・・・少尉」

起こすにはいま少し音量が必要と思われた。

「・・・」

胸がゆっくりと上下している。
まぶたはぷくりと赤くはれていて、頬も涙のせいで赤く荒れていた。
それがはっきりとわかる距離にジェイドは立っていた。
つ、と指の背で頬の赤みをなぞる。
頬にかかる髪に触って耳にかけてみても起きなかった。
手の甲で頬に触れると、少しむずがるようにより深く顔をキモノに押し付けた。

悪趣味にも、ジェイドは少尉の寝姿を正面のソファーに座って眺めた。
遠くでラッパの音。
(なんだ。遮音効果のあるカーテンだというのに情けない)

この空間は静か過ぎる。
どのようにこの空間に音を立てるべきか。

遠くのラッパの音では少尉が起きそうにもない眠りについているのをもう一度確かめ、目を閉じ耳を澄ます。
太鼓、笛、金管、木管。
パートごとに宮廷音楽隊が練習をしている。
勇ましい曲でなく、たおやかな三拍子。



いつか聴いたワルツ



見覚えのある壮麗なる大広間使い古しのドレス「申し訳ありません、大佐」といにしえの王はわたしの背なかにぶつかったことをしゃざいしてワルツ

ワルツ


ワルツ












「大佐」


ワルツ


「申し訳ありません、大佐っ」

声に目を覚ましたジェイドは、自分が眠っていたことを理解した。
そして常に一糸の乱れもなかった少尉が、服も髪も顔も乱れたまま大層困っているのを視界に認めた。
そこは大広間でなく研究所の来賓室。

「・・・失礼、眠っていたようです」
「い、いえ、こちらこそおはずかしいところを」

言い終わる前に少尉の目からポロっと涙が落ちた。

ずいぶん泣いたのだろうにまだ涙が出るのか。
しかしそれは少尉の予想外の生理現象だったようで、慌てて手のひらでせき止めた。
腕には薄汚れた布を抱いている。まばたきすると落ちるから、我慢して目を見張っている。
先ほどよりは落ち着いているようだ。
声をあげたりはしない。
我慢して、我慢しきれず感情がこぼれる姿は少尉らしくはないが、人間らしい姿だった



ジェイドは目のやり場を壁の掛け時計に求めた。

【0時57分】

真夜中。

時計と目を疑う。



ポケットの中の懐中時計も無慈悲に同じ時刻を指していた。
一体何時間寝ていたのか。
どおりで身体が痛い。深くため息を落とした。

「いつから起きていたんですか」
「今、です」
「寝すぎです。・・・まあ人のことは言えませんが」
「申し訳ありません。あの、大佐はいつかr」

咳払いで遮る。

「そんなことより!この後どうするつもりですか。この時間では王宮に戻ることもできませんし、あなたは寮住まいでしょう」

少尉がはっとして顔をあげた。らまた涙がおちた。
もう
これを
どうしろと

お互い同じ気持ちだろう。

「門限が」

少尉は袖で目を激しく擦りながら言う。

「門限がずっと前です」
「知っています。23時の門限を過ぎればあの重い扉が閉まるわけですがあなたはどうするつもりなのかと聞いているんです」
「寮長に謝って、中に」
「その格好とそれをどう説明するつもりです」

乱れた軍服とほどけた髪。
血痕のついた“キモノ”。
根掘り葉掘り聞かれて「馬車に轢かれそうになった子猫を助けていました」と真顔で嘘がつける精神状態ではない。
”キモノ“は大事そうに抱えて、どこかに置いて行くつもりはないだろう。

「むしろ戻らず明日何食わぬ顔で帰ったほうが無難でしょう」
「・・・はい」

寮は門限を過ぎてから帰ることはできないが、帰寮チェックがあるわけではない。
そして寮に住む若者たちには、門限までに帰らなかった友人を密告しないという暗黙の了解が存在している。男子寮から始まったというその風習は「男なら最後(朝)まで責任をとれ」というマルクト軍の裏訓戒がこめられているらしい。

「さてどうしましょうか。野宿をするにしてもこの寒さでは死にますし。宿に泊まるお金も置いてきているんでしょう」
「大佐はどうなさるのですか」
「私は近くに私邸をいただいていますのでそちらに帰ります。当たり前です」

と言ったが私邸には滅多に帰っていない。
大抵は訓練場の粗末なシャワーと執務室に付属した仮眠用ベッドで寝泊りしている。過分に広い屋敷で暇をもてあましているであろう執事の老夫婦には帰るときだけ事前に予告しておく、という褒められない生活をしていた。

「仕方がありませんね。あなたはこの来客室に泊まってください。鍵は渡しておきますので朝になったら私から返すよう言われたといって事務局に返却してく」

ぐぅぅ

少尉の胃が訴えた。
少尉は下を向いて表情を隠した。耳が赤いのは泣いたからだったろうか。
ジェイドはあきれてため息を落とした。



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