一週間ぶりの帰宅だ。
風呂を済ませてしばらくはバスローブで休憩し、軍用の黒いシャツとズボンに着替えた。シャツは詰襟のホックをはずして首元をくつろげる。

一階のダイニングへ下りると、ラーベナルトが忙しく二人分の食事を用意している最中だった。
軽めに、と言ったのに並ぶ料理は手が込んでいる。
「これは旦那様。もうまもなくカブのホワイトスープが出来上がります」
「あなたひとりで?」
「はい。あれはお客様のお手伝いをしております」






少尉がダイニングに現れたのはその5分後。
温まったスープがテーブルに運ばれてきたのと同じタイミングだった。
ラーベナルトはスープを温めているふりをして、少尉が来るタイミングまで間をもたせていたに違いない。
気の利く執事ではあるが、客が来ない屋敷ではいっそ哀れとも思われた。

「さあ、こちらへ」

仕事をした女の顔をしたラーベナルト夫人に手を引かれて入ってきた少尉は、扉の近くで
「遅くなって申し訳ありません、大佐」と萎縮していた。

「これはこれはお可愛らしい。少尉殿というよりは御伽噺の姫君のよう」

ラーベナルトが称える。
古の王であるから、あながち間違っていない。
それにしても、少尉。
その格好は



「わたしが新婚旅行の時に着たものがございましたので、サイズが合ってようございました」



透ける柔らかな布が幾重にも重なり、裾には繊細なレースがあしらわれているネグリジェ。
身体を覆うという目的よりは、男性をぽんこつにする目的に重きを置いている衣服であるように思われた。
申し訳程度に肩から薄手のショールをかけている。
夫人に押し切られたらしい少尉はいつものぼんやり顔ではない。ちゃんと恥ずかしがっている。
ここでこちらがぽんこつになると今晩とんでもないことになるので、気を取り直して

「よくお似合いです、少尉」
にっこり

少尉は私の笑顔から悪意を読取るのが上手くなったようで、「恐れ入ります」と言ったきり唇を引き結んだ。
長く豊かな髪をゆるいゆるい三つ編みにしたのは、夫人の趣味だそうだ。
その堅くないがオープンすぎもしない印象を作り上げる髪形は、新婚旅行でラーベナルト夫人が使った技に違いない。






軽食をとってスープで身体が温まった。
少尉の食事の所作はいかにも品がいい。
あのイカれた部屋の持ち主であるピオニーでさえも食事の所作は王族たる者のそれだった。
一口食べた後と、食事が済んだあとにラーベナルト達に料理のおいしさを伝えた。

食後の白ワインを出し終わると、ラーベナルト夫妻は彼女の部屋のベッドメイクのために中座した。



すでに時刻は深夜三時をまわっているが、ほんの数時間前まで眠っていたので身体は起きている。

「大佐」

ワイングラスを持ち、透明な水面を見つめながら言う。

「着物を返してくださってありがとうございました」

「お礼ならば陛下に申し上げてください。それにもともとはあなたの持ち物なんですから、奪った我々に殴りかかることはあっても礼を言う必要はないでしょう」
「そう言われれば、そうです」
「殴りかかりますか?」
「いいえ」
「私はかまいませんよ。反撃しないと約束はしませんが」
「・・・ほとんどのものを失いましたので、身に着けていた物をひとつ奪われても怒りは湧いてきません」
「なるほど。そのひとつを返されて随分衝撃をうけていたようでしたので、たいそう大切なものなのかと思っていました」

少尉はこちらを見ずに、水面に視線を落としたままわずかに微笑んでいるようにさえ見えた。
見る角度の問題かもしれない。

くいっとグラスを傾けて、白い喉が飲み下した。
体内に流れたワインの動きを追うように視線をおろすと、男をぽんこつにする胸元のレース。
勲章を二つも得た軍人とは思えぬほど少尉の身体はしなやかだ。
生憎、こちらはがっつけるほど若くはない。



「あれは、わたくしの乳母の血の痕です」
食事のあとにすみません、と加えた。

「あれは王を守り死んだ」

乳母。
最初の尋問で彼女が呼んだ“めのと”とかいう者だろうか。
「戦しかない世でした。常勝を誇る偉大な先王、先王は出産で亡くなり、民は落胆しました。わたくしの時代には“スコア”という風習はありませんでしたので、誰一人予想せず、受け入れがたい現実だったのだと思います」

少尉はそこで小さく微笑んだ。
彼女は長く感情を表さなかったから笑顔の使いどころを間違えているに違いない。

「乳母はわたくしを呪う声がわたくしに届かぬよう、城から出さず自らは議会を束ね政を行い、あるいは陣頭を切って戦に赴くこともありました。たいへん厳しい人でしたがわたくしにだけは優しかったのです」

「好意的に受け取っているようですが、それだけ聞くとその乳母は幼いあなたを利用して権力を簒奪した摂政のように思われます」

古い歴史書を紐解けばよくある構図だ。

「あれは簒奪者の批判を覚悟していました。最後まで戦ってわたくしを守って死んだと知ったら、だれもめのとを不忠者などということはなかったろうに」

また少尉は感情と表情を間違えている。
微笑みながら泣くなど、正反対です。



「今日は、泣く少尉をよく見る日ですね」

言うついでになにか施したくなったので、ワインをついでやる。
それを注いだそばから泣くのをごまかかすように飲み干した。
暖炉の木がはぜる。
ラーベナルトたちは戻らない。
少尉の白い肌は気が高ぶったせいかワインのせいか、色づき始めている。
それでもまたワインを注いだ私は、恐らくぽんこつになりかけている。
認めたくない事実だ。



ゆっくりと、前髪が彼女の表情を隠すほど少尉はうなだれた。
酔っているのだろうか。



「民は無事か」

声音が変わる。
多くのマルクト兵を救い、勲章を得てもただぼんやりと遠くを見ていた少尉の声ではない。
これはいにしえの王

「いいえ。あなたの都も人も遥か昔に死に絶えました」
「そんなはずはない」

見える唇だけが薄く不気味に笑った。

「わたくしは都の王。王でないならわたくしを守って死ぬ者などあるものか」
「あなたの臣下は間違えた」

王をただ一人氷の中に眠らせて救ったと間違えた。

「我が忠臣を愚弄するか!」

「いい加減目を覚ましなさい。あなたはもう、ひとりだ」

「ちがう!ひとりでは王であるはずがない!あれは王を守ったのに、守りきったら王が王でなかったなどそんなはずがない・・・!そんなはずが、ないのに・・・・・」

語末は喉から絞りだすような声となった。
暖炉の木は沈黙し
ラーベナルト夫妻は戻らない。
そこからはもう声でない。

「わたくしの守るべき人はどこに」

「・・・」

「どこにも」

「・・・」

「いない」



こういう時、呼びかける名を「少尉」しか知らないのは大変に貧しいことだと思った。



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