海精の牙の旗がたなびく。
パティの船はのんびりと波間に揺れる。
を船に乗せたから、ダングレスト近くへ向かう予定だったこの船はきっと帝都へ向かっているのだろう。

荒くれの船員どもが早々寝てしまった夜、はまだデッキにいた。船に乗ってからずっとだ。
レイヴンは身投げでもするのではないかと思ってさりげなく見守っていたわけだが、海に落ちる様子はない。
夜の海に満天の星、あと月。
羽織はオーマにたむけてしまって、ノースリーブの肩と腕が寒々しい。
とりあえず自分の紫の羽織を脱いでに渡すべく歩み寄る。

「あんだけ地下深くにいたら夜空見たことない?あと、これ着ときな」

はすんなりと受け取り、「ありがとう」とお礼を言ってから袖を通した。
袖を通すとまた空の月を見上げた。

「アンブロセスの月」
「アンブロセス?ただのお月様よ」
「かつて二人目の私がオーマに光を願い、オーマが作ったのがアンブロセスの月。こちらが本物なのですね」

十六夜の幽居街のにごった空に朧な月が浮かんでいた。そういえば満月の子の子孫がアンブロセスの月と呼んでいたっけ。

「光が欲しいつったら普通は太陽を作りそうなもんだけど。”満月の子”だから月が好きだったのかねえ」
「わからない。けれど我らを優しくやわらかに照らす光は嫌いではありません」
「そうかい」

が自分の羽織を着て月を見上げている姿もぞっとするほど美しかった。目に毒だ。

「もうおやすみ。潮風にあたりすぎると君の一張羅洗濯しなきゃいけなくなっちまうよ」

妙な気分になってしまいそうだったので、だけを中へ促した。
は静かに頷いて、船室の扉へ歩いて行き、途中で振り返った。

「あなたに名はあるでしょうか」

そんなふうに名前を聞かれたのは初めてだ。

「あるよ。俺はレイヴン」
「レイヴン。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」

閉じられた船室の扉をしばらく見つめてぼんやりしてから、くしゃみを一つして羽織を返して貰い忘れたことに気づいた。






朝起きたら、船はダングレストの北まで来ていた。

「あれ!?パティちゃん、ここ帝都じゃないよ」
「おっさんは甘いのう。まるで海底ヒトデのように甘い」
「え、ヒトデって甘いの?」
「うちら海精の牙は海賊じゃぞ、帝都まで行ったら騎士団に捕まってしまうのじゃ。わざわざ大回りしてダングレスト近くまで送ってやっただけ感謝せい」
「それにしてもダングレストは帝都から遠すぎるんじゃない?この子のお仲間は帝都に行ったはずなんだけど」
「バウルに頼めばよかろう」
「ジュディスちゃん達はアスピオに行くって」
「じゃあおっさんがどうにかせい、男じゃろ!んじゃ、うちらはゴールド・ロジャーの隠した財宝を探しに出発するからの。海賊王にうちはなる!」
「おおい!それどこの少年ジャンプの人だ!」

「んじゃ、またなおっさん」と言う軽いウィンク残してパティ海賊団ことギルド『海精の牙』は出発してしまった。
と二人、ぽつんと陸に取り残された。












仕方なくダングレストまで連れて行った。
なじみの宿屋をまわってみたがユーリ達はもちろんいない。孤立無援。
お仲間と一緒に帝都に戻すのが一番なんだろうけど、ダングレストから帝都まで徒歩で戻るのは骨だな。
どうしよう
ダングレストの石畳の上で考えていると、が近くのショップやら宿屋やらを覗きに行ってしまう。

「これこれ、勝手に行くんじゃないの」

貸したままの紫羽織の袖を引っ張って繋ぎとめる。
地下にいた時は仙人のような落ち着きぶりだったのに、地上に上がってきてからどうもふわふわしているところがあり、ちびっ子を相手にしているような気分になる。決して仕草や言葉が子供っぽいということはない。むしろ黙っていると世界の真理や哲学について思いを馳せているような聡明ささえ感じさせる。(実際にはあれは何だろう。これは何だろうと思っているだけなのだろうけれど)
帝都まで一人で戻る分には問題ないが、このぽやぽやふらふらしたお嬢さんを守りながらとなると話は別だ。

「どうしたもんかなあ」

の袖を捕まえたまま大通りで途方にくれていると、ふと壁に貼ってある酒場の住み込みアルバイト募集チラシが目に入った
こりゃあいい!とレイヴンはさっそくその日の夕方から酒場『天を射る重星』のマスターにを預けてきた。しばらくは酒場で面倒をみてもらい、ジュディスが戻ったらバウルで安全に送ってもらえばいい。






「クビィ?」
「ああ。見た目は極上だけど、レイヴンの頼みでもさすがにあれはうちじゃあ雇えないよ」

レイヴンはカウンターからこっそり振り返る。酒場の壁際に夕方ここに預けた時と同じ、寒そうなノースリーブの肩が見えた。わいわいと下品に楽しく飲んでいる客をは珍しそうに見渡している。

「なんかやらかしたの?」
「お盆持たせただけで重いって落としちゃうし、注文とらせようにも注文票に古代文字みたいの書いてくるし、掃除頼んだら道具の使い方がわからない、皿洗いさせてみたら」
「オーケーオーケー。ごめんよマスター」
「いったいどこの箱入り娘だい。さらってきた?」
「ちょっとワケアリでね。皿割っちまった分さ、今度天を射る矢の忘年会ここでやることにするから。カウフマンにも声かけてみるし」
「毎度どうも」

上機嫌に戻ったマスターのところを離れて
「よぉー別嬪さん!こっち来て一緒に飲もうぜ」
という誘いをひっきりなしに浴びせられているのところへ、客をかき分け近づいていく。

「妙な服着てやがんな。その中どうなってるか俺らに見せて見な」
「ちょいとごめんよ」

のスカートの裾を つまみ上げようとした酔っ払いの手を遮る。

「あら、レイヴンの連れ?今度は清純派に鞍替えかしら。それとも清純派プレイ中?」
「そゆこと。それじゃまたね」
「なんだレイヴンもう行っちまうのか。どこの店の子かくらい教えてけよ」
「一晩いくらだい?」

酔っ払いを適当にあしらってを酒場の外まで連れ出した。無難に収めるのは得意だ。






「住み込みはいい手だと思ったんだけどなあ」

酒場の外に出てすぐの階段に腰掛けて独りごちる。
彼女の浮世場慣れっぷりを甘く見積もっていた。今も外に置いてあるからっぽの酒樽を真剣に見ている。
結構寒いのにあのノースリーブ。レイヴンの視線が追ってくるのに気づいて、はレイヴンのもとに戻ってきた。

「また着てて。その格好目に寒いや」

羽織を預ける。
はじっとまばたきせずにレイヴンを見た。
なに、と首を傾げるとまばたきして、なんでもないと首を横にふる。
護衛ギルドに依頼するという手があったが、そもそもお盆が重いとのたまう人間が帝都までの長旅についていけるわけがない。
どうあっても、しばらくはこの大きなちびっ子の世話をせねばならないらしい。

「しかたない。おいで」

レイヴンは大きなため息を一つ落としてから、紫の羽織をくいと引っ張った。






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