よくよく落ち着いて観察してみれば、はまさしく大人だった。
自分のおかれた状況を嘆くことなく、状況を改善するために体力づくりや現代文字、文化の勉強をした。
食事は作れなくても手伝いをして覚えようとするし、掃除だって道具の使い方を教えたら毎日やっている。
洗濯物を一緒に洗う時、その中には彼女の下着だけ含まれていなかった。

健気だわ頑張るわ恥じらいも持ってるわで、できた娘っ子だ。
ほんと、なめててすみません。
ああでも、チョコをユーリ食い(板チョコを縦にして絶え間なく最後まで食う)するのは普通じゃない。

「あんまり食べるとニキビできちゃうよ」

コミュニケーションとご機嫌取りのために毎日チョコレートを買ってくるのは自分だが。
はユーリ食いを途中で止めて、

「食べないほうが、いいでしょうか」

としょんぼりする。

「おいしいが正義!じゃんじゃん食べよう」

あと最近気づいたんだけど、この人はちょっとエステル嬢ちゃんに似てる。
満月の子らしく髪の色や肌の色、瞳の色が似ている。あの目に涙ぐまれると過去の過ちを色々思い出してしまって仲間に鉄拳制裁された痛みがよみがえる。そういうのもあって、優しくしてたのかもなあ。

「おいしい?」
「おいしい」

幸せそうに食べる姿は癒されるし、まあいいか。
にとってチョコは現時点で「世界で一番おいしい物」らしい。
ということはオーマはこんなの顔を見たことはなかったのだろうか。
もったいない。

筋肉痛にびっくりする日々が収束し、腹筋10回1セットが2セットに増えた頃、は現代の文字を覚えた。
古代ゲライオス文明の文字と形は違うが文法や音がほとんど同じなのだそうだ。

「今度エステルと会うときにコレクター図鑑を借りて来ようか。いろんな物が絵付きで載っているよ」
「それは嬉しいです。ありがとう、レイヴン」

約束したけれど、エステル嬢ちゃんと会う時ってこの人を帝都に戻す時かもしれない。












今日も今日とて現代社会の勉強のために二人でお買い物。
家に帰る途中で雨に降られた。
こちらは早足になったが、は逆に歩み遅くしてやがて立ち止まってしまった。
真上を見上げている。
傘も無いのに。

「これが雨」

は上を見たままレイヴンに尋ねた。字が読めるようになり「これは何?」の問いかけは最近ずいぶん減った。

「雨だよ」

「雨を見たのは仮想映像です。ある時点の景観や質感を仮想的に再現します。長い年月のうちに質感を表現する機構が失われて、視覚的に閲覧したことしかありません。オーマは質感を表現する機構は直そうとしませんでした。誰かに姿を見られたり触られることを好まなかったからでしょうか」

「雨を体験するのもいいけどさ、あんま濡れると身体冷えて風邪ひくよ」
「カゼ」
「病気。もしかして昔の人は病気しないの?」
「病気はありました。最初のの父母やオーマの兄弟は病で亡くなったと文献にありました。体験したことはありません」

雨に降られたは服が身体にはりついて、白いブラウスは身体の線を克明になぞっている。
服を着ていると痩身に見えたが、ちょっとオーマの妄想が勝手に水増ししたんじゃないかと思われるような色っぽい形が浮かび上がる。
は上向いて小さく舌を出して、雨を食べようとしている。
これこれ、あんまりエロい顔するんじゃないの。変な気分になる。

「行くよ」

先を歩き出すとが気づき、名残惜しそうに上を向いたままついてきた。















「レイヴン、私は死ぬのだろうか」
「ただの風邪だよ。ゆっくり休めばすぐ治る」

体温計を取り上げて数字を読み取る。
案の定、夜中に熱を出した。
頬が真っ赤になって目が熱に潤む。はあ、はあと苦しそうに口で息をしてツバを飲み込むのも痛いらしい。
は毛布から手を出して、指先をゆっくり握ったり開いたりした。

「節々が痛い?」
「少し痛みます。こういうのは初めてでどうすればよいのだろう。私の役目は終わっているから死んでも問題ないのだけど」
「おや、不道徳なこと言うね」
「どうすればよいかわからないのは落ち着かない。身体が思いどおりに行かない。熱いのに、すごく寒い気もする。どうして」
「飢餓は恐怖だって本に書いてあったんだろう」
「これが飢餓。食べ物を吐いたから」
「違う。これが怖いってことだよ。オーマが君を作ったのだって、さびしい事の怖さに耐え切れなかったんだろうよ」

はしばらく黙り、ぜィゼィと詰まった音をならす気管の近くを指先で触っていた。
その白い指がの室内着の襟首をぎゅっと握った。

「オーマはずっとこんなに怖い思いを」

じわと涙がうかんだ。オーマを想って?

「病気になると気が弱くなるから悲しくなることを考えなさんな。治ったらチョコレート食べたいなあって思っておくんだ」

はゆっくりうなすいた。
冷えピタをはってやってそのまま指をすべらせて頬を撫でる。
額の傷がふさがった後でよかった。いやらしくならないように指をまげて関節で撫でる。

「それから、君が死んでも問題ないなんて誰が言ったの?オーマ?」
「私がいま、言いました。オーマは言いません。オーマはひとつひとつの私の死をひとつひとつ悼んだ」

「いいやつだね」



「・・・うん」

珍しい。短い、子供のような返事。

「レイヴン、ありがとう」
「そばにいるお礼かい?」
「いいえ、オーマをいいやつといってくれた。レイヴンは優しい。そばにいて」

泣きそうな声。
は仰向けだった身体をこちらのほうに向けて、頬の近くにあった俺の手をあごの下あたりに押し当てると目を閉じた。
細い首が熱い。
手が冷たいのが心地いいのか、甘えているのか。
消耗していたはあっという間に眠ってしまった。



もう無い心臓が痛い気がした。
弱点をつくような真似をしてごめん。
俺だってアレクセイのことをいいやつと言ってくれるような人がいて、気が弱っている時にそんなこと言われたら「ありがとう」って泣きそうな声を出してしまう。いいやつじゃないんだ、思いっきり悪人なんだ、どうしようもない悪党なんだ。それでも思い出みたいな色々めんどくさいのがあって、本当にたくさんあって、ありすぎてさあ、
あ、やべ
別にアレクセイのこといいやつって言われたわけじゃないのにこっちまで泣けてきた。
ズビビと鼻水をすすって、息と心を整える。
優しくするのは君と似た感情と恐怖を知っているから。自分を慰めるように君を慰めている。
近頃そこに違う少し感情が混じってきたことは自分でわかってる。悪い気分じゃない。
























レイヴンは私の恐怖を悟って、私の願ったとおりそばにいてくれた。
オーマのことを醜いと言わない。それどころかいいやつだと言ってくれた。
憎しみの亡者と称されるにふさわしい心を持つオーマを。

レイヴンはやさしい。オーマと同じように。

オーマは私を愛し優しさをそそいでくれた。けれど私はオーマの憎しみを癒すことができなかった。私はオーマのためだけに生まれて死んで生まれているのに、私の行いでは、私では、足りなかった。オーマの優しさに言い切れないほどの感謝をしたくても優しさを返したくても、もうオーマはいない。
私はどうすればいいだろうか
どうするべきだろうか
どうしたいだろうか
ああ

私はオーマにできなかったことをしたい

オーマにそそぎたかった慈しみを、優しさを、レイヴンに返そう。
オーマの優しさを思い出し続けて優しくあれたら、私はオーマへの感謝をずっと忘れないでいられるように思う。






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