わりと夜の早いうちに、酒場から追い出された。
蜜蜜ザッハトルテを食べられなかったユーリが暴れたからだ。
こっちは傘無いってのに。
走って帰ればよかったのだけど、エーディンになんと言って話を切り出すべきか考えていたら自然と足はゆっくりになった。
やがて足を止めて雨の夜を見上げる。これじゃいつぞやのエーディンと同じだ。
エーディンは帝都に帰ると言うだろうか。
帰ると言われると覚悟しておこう。そのほうが無駄に落ち込まなくて済む。俺、根暗だな。
もしも、残りたいと言ったらそれは俺のことが判断材料のひとつに入っているだろうか。入っているだろうか。こればっかりはわからない。エーディンはオーマの話しかしないから。
「レイヴン」
向かう方向から声がした。エーディンが傘をひとつさして、もう一つの傘を腕にひっかけて立っていた。
もしも
パシャンと水溜りの水を跳ね上げ、エーディンが駆け寄ってきた。
「よかった、見つかって・・・。具合は悪くありませんか、熱は、喉は痛くありませんか」
もうだいぶ濡れているのにわざわざ傘をこちらに差し出す。
「傘届けにきてくれたの?」
「はい。でもユニオンの人に聞いたらもう家に帰ったはずと、でも家にもいなくて、でも身体が濡れたら風邪をひくから」
もしも残りたいと言ったらそれは
「ずっと探して?」
うなずくエーディンから濡れた手で傘を受けとって頭上に開く。
あまり意味はないけど、こうしたほうがエーディンが落ち着くだろう。
よほど先日の風邪体験が恐ろしかったんだね。
「大丈夫。ちょっと雨に降られたくらいじゃ普通は風邪ひかないよ」
よく見たらエーディンの服の肩が濡れていた。足元だって、水を弾くような靴じゃないからきっと靴下までしみているに違いない。
雨の中あちこち探し回っていたエーディンの息はまだ弾んでいる。
頬が上気している。
今日ユーリとパティに会って戒められていなかったら、この場で抱きしめてしまっていたと思う。
「本当に平気なのに」
家に戻ると、危ないからよしなさいと言うのを聞かずエーディンはまた一人で雨降りのなかに出て行った。
そしてちょうどシャワーを浴び終わったところで、薬屋さんの紙袋を抱えて帰ってきた。
いつもはエーディンが使っているベッドに寝かしつけられる。
「私も最初は平気でした。けれど夜中になって急に気分が悪くなりました。だから・・・なんと読むのかしら」
エーディンは薬の箱の注意書きとにらめっこしている。まだ難解な表現の現代語は覚え切れていない。
そんなに落ち着きなくされてしまうと帰る帰らないの話を切り出しにくい。
「どれ、見せてごらん」
エーディンが手に持っていた箱を受け取る。
薬は飲む振りをしてあげればいいだろう。落ち着いたところで話そう。
箱を見て青ざめる。
「エーディン、これなんて言って買ったの」
「薬屋さんの奥様に、男の人が元気になる薬をくださいと。別の薬だったでしょうか。」
どうしようこれ、精力剤。
「あと、冷えピタと、奥様がおまけをつけてくれたんです。これも別の薬でしょうか」
紙袋の中からコンd
袋から出し切る前に紙袋ごとエーディンから奪い取った。
「実は俺あんま薬とか飲むと、あの、えっと、は、はげちゃうんだ!」
「はげちゃう?」
「そう!禿げちゃうの!だから飲めないんだごめん!というわけで寝るね!おやすみ!」
勢いでゴリ押したらエーディンはあきらめてくれたようだ。けど咄嗟とはいえ、禿げちゃうって自分。もっと言いようがあったろう自分。
それにいよいよ話を切り出すタイミングを見失ってしまった。
うう、俺のアホ。
ぎゅと目をつむって心の中でもがいていると前髪をなでられた。
雨の中ずっと探してくれていた手は冷たい。
「髪が濡れていると、レイヴンが少し別の人に見えます」
そりゃあ、別の人だから。
10年間ドン以外にバレなかった。バレたらそいつを殺してた。
心配そうに上から覗き込まれる。顔の半分以上を毛布にうずめて目をそらす。
シュヴァーンの顔を見せるのは嫌だ。
「冷えピタでも禿げちゃうでしょうか」
「・・・冷えピタは、平気だけど」
平気というかそもそも熱がない。
「よかった。あなたがこれを額に貼ってくれて、冷たくて気持ちが良かったのです」
前髪をよけた額にペタと貼られる。
ひんやりすぎて寒い。
ぞくぞくする。
「気持ちいい?」
そんな風にエロく言われると別の意味でぞくぞく来てしまうので、何度もうなずき「もういいから離れて」を表現する。
肩のあたりにできていた毛布の隙間を、エーディンの手がきゅっきゅと押して埋めた。冷たい空気が入らないように。
その手は毛布の上を滑って胸の辺りでとん、とんと一定のリズムを刻む。ずいぶんゆっくりだ。
「・・・なのはなばたけに いりひうすれ みわたすやまのは かすみふかし」
しばらくしたら始まった、昔の子守唄だろうか。
知らない歌だし、歌詞の言葉がところどころしかわからない。
「うるさいでしょうか」
「うるさくはないよ。癒し系の歌だね」
「オーマに歌っていたうたです」
またオーマ。
「ああ、そう」
「故郷を、美しい景色を懐かしむ歌です。オーマの時代にはすでにこの景観は失われていたそうですが、オーマが愛した歌」
この慈悲深い人はオーマを愛してはいなかったと言ったけれど、本当だろうか。
この変なところで抜けている慈悲深い人は、それが愛情だと気づかなかっただけではなかろうか。
いとおしそうにオーマとの思い出を語る。
聞かされる俺は悲惨だ。
「レイヴンの好きな歌があればうたいたい」
「ないよ」
「・・・そうですか」
残念そうにする。
何を残念に思った。
俺の力になれなかったこと?
「ねえ、どうして急に俺に気ィつかい始めたの」
「・・・あなたに優しくしたいからです」
「どうして?」
「オーマは優しくしてくれました。けれど、私はオーマのために生きる役目なのについに終わりの時まで彼の憎しみを癒すには足りなかった」
「・・・」
「だから今度こそ優しさを返したいのです。あなたはオーマを悪く言わないでくれました。いいやつだとさえ言ってくれた。レイヴンは優しい」
「俺をオーマに見立てて、オーマにできなかったことを俺にしてたのか」
ああ、なるほど。合点がいった。
額に張り付く不快なシートはがして床に落とす。
起き上がりベッドを降りて乾いている上着を引っ張り出す。
ベルトをしていつもの小刀を押し込んで傘をひっつかんでドアを開く。
「何人も代わりがいたあんたと違って俺は最初で最後のレイヴンだ。オーマの身代わりにされちゃあかなわん」
吐き捨てて、エーディンが何か言うより早く雨の中に飛び出した。
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