「すんませ〜ん、ボールとらせてくださ〜い」

今日は暖かい日、
ユーリがやる気のない声を出す。
彼の前には大人が頑張れば乗り来られる塀があり、その奥には大きな屋敷がある。
下町の子供達と野球をしている最中、10歳の投げたボールに14歳のユーリが本気でバットを振った結果、この屋敷に飛び込んでしまった。
英雄シュヴァーンのサイン入りボールだからどうしてもとってきて欲しいとチビ達にせがまれ、今に至る。
右を見て、左を見て、はてしなくこの屋敷の塀が続いている。
人通りなし。
警備なし。
チャーンス。

「よ、っと」

背よりも高かった塀の上に軽々と跳びあがり、塀の上から庭に人がいないことを確認して敷地内に降り立った。
緑あふれる庭をゆっくり見回す。ボールを捜すのもあるが、見たことが無いほど広い庭だったから珍しかった。
足元を見ていなかったら靴が小さな川に落ちた。一張羅の靴がびしょ濡れだ。

「ったく、庭に川なんて作んなよ」
「これを使ってください」
「別にいいよ、もともとあちこち破れてるし、こんなん濡れたってどうってこと・・・あ」

やばっ
目の前にハンカチを差し出す女の人がいて、どう見てもお屋敷のお嬢様の格好をしていた。

「悪ィ、じゃなくて、すんません。ボール入っ・・・て・・・」
「ボール?」
「・・・」

中途半端に言葉をとめて目の前の顔ばかり見ているユーリに、お屋敷のお嬢様は首を傾げる。
肌が陶器みたいに白い。
長い睫にふちどられた瞳とピンク色の唇、ユーリより年上なのかもしれない。大人っぽい微笑みをたたえ、きれいなひとだった。

「この花壇の花より、低く屈んでください」
「っなんで?」

のんびり言われたのに、息継ぎが下手になっていて噛んだ。
ユーリの両肩に細い指が伸びてきて「うっ」と呻いてユーリは身を固くした。宿屋のおかみさんに怒られる時だってここまでビビらない。

お嬢様、また向こうのベンチですか」
「ええ。しばらく一人にしてください」
「かしこまりました。庭師にもそう伝えましょう」
「ありがとう」

屋敷の廊下の窓から、使用人の老婆が声をかけてきたのである。
声の調子は普通だったのに急に肩を押し下げられたから、何事かと思った。
老婆は去って、花壇より頭を低くしていたユーリが立ち上がる。

「もう大丈夫です。ボールを探すのですか?」

ユーリはまだビックリの余韻があったのでうなずく仕草だけで答えた。
悲鳴を上げられたり、罵声を浴びせられたり、通報されたりすると思っていた。

「ではあなたは向こうのベンチの近くを探してください。わたしはこのあたりを探します」
「いいのかよ」
「ええ。ベンチの近くでしたら人払いをしてありますから」
「そうじゃなくて、俺そこから勝手に入ったけど」
「正面から入ろうとしても入れないと思います」
「そうだけど」

そういう意味じゃなかった気がするが、はさっさとボールを探し始めてしまった。
仕方なくユーリは言われたとおりベンチの近くを探す。
ベンチがある場所から屋敷まではたくさんの垣根で隔てられていて、確かにこのあたりならユーリが動き回っていても使用人に見つかることは無いだろう。ベンチの前には池がある。池の周りはまさに庭園というべき景色で、色のバランスや季節ごとの変化を楽しめるように花が植えてある。ユーリにはさっぱりわからないが。
芝生の上を探して、ちらっと振り返る。

は白い手を地面について、
高そうな服の袖を草むらの中につっこんで、
ボールと間違えて松ぼっくりを手に掴んでいる。
ちょっとウケた。
程なくしてネコ足のベンチの下、ユーリがボールを見つけた。

「そう、よかった」
「・・・ありがとな」

穏やかに微笑むの服は葉っぱがついていたり、土で汚れてる。
お礼を一言発声するのにも息が邪魔した。

「あなたの名前は、シュヴァ、ン?シュヴァーン?」
「違うけど」

ボールに書いてあるサインを見ている。

「これはシュヴァーンのサインで、下町のガキどものお宝なんだよ。あんたシュヴァーン知らないのか?」

小さく上に放ってキャッチする。

「騎士の?」
「そ。まあ、本物かどうかはわかんねえけどガキどもは信じてるからな。なくすとうるさいんだ」

もう一度上に放る。

「では本物ね」

が微笑みのお手本のようにきれいに微笑んで、ユーリはボールを取り落とした。






今日は昨日の次の日

「ボール?」

が少しいじわるに笑って尋ねた。
昨日と同じ時間、同じ場所にユーリが現れたから。

「悪ィかよ」

ふてくされたようなユーリ・ローウェル(14)を、はスマートにネコ足のベンチへ促した。
侵入しておいてなんだが、そこまで二度目の急な来訪(侵入)を歓迎してもらえるとは思っていなかったので、彼女もユーリを待っていたのではないだろうかという錯覚があった。錯覚である。
は思春期の少女のように赤面をしたり、カッコイイ同世代の男子を見て挙動不審になったりすることはなかった。
(この人は大人だ)
ユーリは思った。
実際にはユーリとは片手で数えられるほどしか歳が違わないのだけれど、中一の頃は中三の先輩がものすごく大人びて見えるのと同じ現象が起きていた。中学、高校という制度はナム孤島にしか存在しないので、その現象が現在進行形で起きていることにユーリが気付くことはない。






「ユーリ、またお屋敷に入ったの」

今日も暖かい日
拒絶でも驚きでもない、歓迎するやわらかな声の響きがある。
敷地内に人工の川までしつらえてある庭に忍び込むのは、最近のユーリの日課になっていた。
屋外にあるネコ足のベンチに勝手に腰掛けていれば、いつも同じ時間にやってくる屋敷の主の娘、という。
ベンチは生い茂る緑で隠されていて使用人につまみ出される心配は無い。目の前には小さな池もある。

「あんたんとこの警備はサルだからな」
「そういうのはザル警備、というのです」
「自分で言うなよ」
「そうですね」

生意気な言葉にも嫌な顔ひとつせず、微笑みながら彼女もベンチに腰掛けた。ほんの少しだけ香水のにおいがした。
ユーリは鼻が曲がりそうなくらい香水くさい貴族は嫌いだったけれど、このにおいは嫌いではなかった。くんくん、とやりたくなる。

「門の前にしか警備がいねえだろ。壁乗り越えたら誰だって入れるじゃん」
「戦争が終わって以来人手がありませんから、人件費が高いのだそうです」
「へー、じんけん費が高いなら仕方ねえか」
「ええ」

滅多に使わない言葉だから発音が変になった。
大人の会話をするためには知ったかぶりも必要だ。






今日は暑い日
はなんでいつも同じ時間に庭に出てくるんだ」と聞いてみた。
はつばの大きな帽子をかぶっていて「好きな人を待っている」と言った。
あの頃は毎日同じ時間にユーリが庭へ行って、
とユーリ、他には誰もいなかったから、てっきり自分こそがその“好きな人”なのだと思った。
その日ははしゃいでベンチの前の池に落ちた。






雨の日は傘を差し
風に日はケープをかけて
寒い日はコートを着て
暑い日はツバの広い帽子をかぶって
いつも
毎日
同じ時間
ネコ足のベンチ
ベンチの上、ユーリとの間の距離はずっと”友だち”の距離だった。




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