今日は雨の日。
ベンチの近くで二つ傘をさす。
「あんたんちの庭いつも誰もいないし、もしかして一人でここ住んでんのか?」
「ばあやとメイド達がいますよ。お父様と二人の兄がおりましたが、騎士として人魔戦争で亡くなりました」
「母さんは?」
「ずっと昔に流行り病で亡くなってしまいました。ユーリのご家族は?」
「んー、父親はいなくって、母さんはずっと前に病気で死ん・・・亡くなった」
失言をしたと思ったクシャナは「ごめんなさい」と聞こえるか聞こえないかの声で言って、顔を隠すように傘を傾けた。
最初に聞いたのはユーリの方なのに。
ちょっと焦る。
「どうってことねーよ。宿屋のおかみさんが母親みたいなもんだし、下町の連中はおせっかいばっかりだからな」
「・・・わたしも」
傘が上向く。
「ばあやがお母さん」
傘の中ではにかんで頬笑んだのを見て、焦りで硬直していた指がゆっくり溶ける。
傘の先から落ちる雨に視線をずらした。
「それじゃ、だいたい同じだな」
クシャナは和やかに目を細めて池の方へ視線をやった。
声は返らなかったから静かになった。
雨が止む気配は無い。
やがてクシャナの傘が下へ傾く。
「みんな遠くへ行ってしまって、寂しいですね」
顔が見えない。
ユーリは本当にさびしくなんかなかったけれど
「そうかもな」
と答えた。
きっと寂しいのはクシャナの方なんだ。
今日は寒い日。
空が灰色で「雪が降るかもしれない」とクシャナは上を見上げている。
「ユーリ、寒くありませんか」
衣替えをするほどたくさん服を持っていたわけではなかったから、ユーリの格好は秋のままだった。
当時のユーリの記憶によれば、この時クシャナは“カシミャーという山羊で作ったマフラーを大きくした布”を肩からかけていた。
正式名称ショールというやつだ。
「別に寒くない」
なぜだか寒いのを我慢するほうがカッコイイという固定観念があった。
「そう。それじゃあこれだけ」
クシャナはポケットから手のひらにより小さい小瓶を出した。
精巧な細工が施されたガラスの小瓶の蓋を取る。
「手を出してください」
言われるまま手のひらを出す。
「マメがたくさんあるのね。これはしみる?」
「剣の練習してるからな。何回も破れてもう痛くない」
「剣?ユーリは騎士になるのですか。手は、手の甲」
クシャナの手がユーリの手に触ってそっとひっくり返した。
「・・・」
顔には出さないがユーリは緊張した。。
騎士になるのかと聞かれたのに、聞かれたことを忘れる。
ユーリの手の甲に小瓶の中の液体がポタリとこぼれた。
「なんだこれ」
クシャナの指先がユーリの骨ばった手の甲をくるくる動いた。
小瓶の液体がたれないように素早く広げる。
「香りのついた油です。乾燥を防いでくれて、すごく良い香りがするの」
自分の手の甲にも一滴落として、クシャナは手の甲同士をすり合わせた。
ユーリも見よう見まねで手の甲をこすり合わせる。
ふわりとクシャナのにおいがした。
「・・・これ、なんの匂い?」
手のひらを顔に寄せる。くんと嗅ぐ。
「ラベンダーと夕顔とカモミール」
「ふうん」
夕顔しか知らない。
もう一度くんと嗅ぐ
「いい匂いだな」
クシャナのにおい。
ベンチには友だちの距離。
今日は本当に本気で寒い日
クシャナの手袋とケープを借りた。女物だ。
この格好を下町の連中に見られたら軽く死ねる。ユーリは羞恥に耐えた。
耐えてじっとしているのを寒がっていると思ったのか、クシャナが声をかけてきた。
「ユーリ、寒い時、こうして両手をあわせて」
左手で右手の親指をつかんで、右手のあとの指は左手の甲を包む。
「ん?こうか?」
「そうして、温かい方の手から冷たいほうの手へ体温をわけていくのをイメージすると少し暖かくなるんですって」
「嘘だろ」
「わたしも教えてもらった時、うそだーって言ったことあるわ」
「ホントだった?」
「ううん。寒いままで、寒いままよってその人に言ったの。そうしたらね。その人私の手を握ってじゃあ体温を分けてやる、って」
その日、その時、クシャナはいつもよりおしゃべりだった。
白い頬が赤いのは寒いから?
”その人”ってだれだろうか。
「でもその人の手、私よりずっと冷たくてね・・・冷たくて・・・」
冷たくて
のあと、クシャナは笑ったまま言葉をとめて、音がなくなる。
ユーリもつられて黙ってしまった。
ふと見るとクシャナの指はユーリが手袋を使っているから剥き出しのままだった。
かじかんでいるんだ。
だから強張って震えてる。
「これ、返すよ」
手袋を返した。
今日は、どんな日だったっけ。
クシャナが「明日からはもう会えない」とユーリに言った日だ。
「・・・なんで?」
「結婚するから、その準備のためにここを出なくてはいけないの」
薄々気づいてはいたけれどクシャナの好きな人が自分より他にいたのだと思い知る。
いま
同じ時間
同じ場所
一緒にいるのはユーリだけれど、クシャナはここで好きな人を待っているのだと言っていたから、ユーリの気づかないうちにクシャナの待っていた人が来てしまったのだ。
ネコ足のベンチには最後まで友だちの距離。
クシャナは悲しそうに笑って、白い頬っぺたに涙が落ちた。
下町へ続く急な坂道をくだりながら繰り返す。
嫌いだあんなやつ、嫌いだあんなやつ、嫌いだあんなやつ
泣きたいのは、こっちの方だ。
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