「ユーリ」
昔の声の響がした。
好きになったひとの声の響きだ。
雨の音がする。
「・・・あんた、覚えてたのか」
小屋に到達した途端俺が倒れた。
原因は自分自身が一番わかっている。
連日の睡眠不足で疲労がたまり、おまけに二時間以上も雨に降られて体温を奪われたせいだ。
あの歩きにくい靴で雨の森を走らされた皇妃サマより先にぶっ倒れたのだ。
まったく情けないったらない。
「覚えてるならもっと早く言えよな」
「ごめんなさい。ずっと怒っているようだったから」
「・・・あんたに怒ってたんじゃない」
本当、情けないったらない。
小屋の中、横たわったまま動けない俺のかわりに、クシャナが慣れない手つきで火打ち石をかち合わせている。
俺の身体にはクシャナのローブがかけてあるが、着ている服もローブもびしょ濡れで余計冷たい。
石を合わせるカン!という音の繰り返しの中で一個だけ鈍い音があった。
たぶん火打ち石で指を打ったんだろう。
「やめとけ。この湿気じゃ火ィつかねえから」
「でも、ユーリ、あなたの身体すごく体温が下がって」
「死にゃしねえよ」
振り返ったクシャナの前髪からまだポタポタと水滴が落ちている。悔しそうだ。
・・・泣いてるんじゃない、よな?
額に手がのびてきた。
触られた。
あまり感覚がない。
クシャナは自分の手のひらに息をかけて何度か擦り合わせてから、もう一度俺の額に手をあてた。
今度は少し温かい。それから首に触られた。もう手のひらは温かくなくなってしまった。くすぐったい。眠たくなってくる。
って寝たらだめだ。この森は魔物が出る。夜になったら増える。寝たら守れない。
「こりゃ・・・しゃべってないと寝るな」
「眠って、休んだほうがいいわ」
「あんたが待ってたのって、デュークだったのか」
クシャナの言うことなどきかずに話しだす。
何か言いたげだったけれどクシャナは文句を飲み込んで、俺の頭を膝の上にのせた。どうも。
「・・・そう」
「デュークとどういう関係だったんだ」
「よくわからなくなってしまいました。デュークは戻ってこなかったから」
「あいつも、あいつの事情があったんだろ」
エルシフルの件で人間不信になったりとか
エルシフルの件で人間不信になったりとか
エルシフルの件で人間不信になったりとか
「そうかもしれません」
「いまさら会ってどうすんだよ」
「会って、ふられて、もっと早く言いなさいと怒る予定でした」
過去形だ。
「けれど、まずは一回ぶつことにしたんです」
「ぶつ?あんたが?」
「そう。向こうにも事情があって、わたしにも待ちぼうけした事情がありますので、まずは何も言わずに一発殴ったらいいと、ジュディスとリタに教えて貰いました」
「あいつら・・・」
ツッコミみたいところはあったけれど、無駄な体力を使うべきではない。
久しぶりにクシャナが穏やかに微笑むのを見た気がする。それに今「わたくし」じゃなくて「わたし」って言った。
前髪を撫で付けられた。
こそばゆい。
「ユーリ、寒くありませんか」
懐かしい声がする。
同じ言葉を、ずっと前に言われたことがある。
あの日はクシャナと同じにおいのする香油を手に塗って、そうだ、あのときいいにおいで・・・
意識とクシャナの声が消失していく。
ユーリ、顔が真っ青に、ユーリ、ユーリ
そんなことを言っている。
あれ?俺寝るだけだよな?すげえ寒いし、もしかしてこのままクシャナの声が聞こえなくなると結構やばいのか?
頭の後ろの方で濡れた服が丸太小屋の床に落ちる音がした。
そのあと上半身を起こされて、濡れている服を脱がされたのか肌に直接隙間風があたった。
後ろから強く抱きしめられる格好になって、背中に、頭がどうにかなりそうなくらいやわらかい感触が直接伝わ―――
「ちょっ!タンマッ!」
超・覚・醒
自分の肩を通り越して前に持ってこられた白く細い腕をガシっと捕まえる。
振り返るといろいろよくないので、前を向いたまま言う。
「これはいくらなんでもまずいだろ!」
「でも体温が。あとあまり大きい声を出すと魔物が寄って来ます」
こいつは混乱してんのか冷静なのかどっちだ!
かゆくもない頭をガシガシかいて、少しボリュームを落として続ける。
「あんたデュークが好きなんだろっ」
「そうです。だからあなたに何かしようという魂胆はありません。体温を分けるだけです」
「この場合、オレがなにかする可能性の方が高いだろうが」
「それは我慢なさい」
「我慢って」
そんな簡単に・・・。
大きな声を出したら途端にめまいが襲ってきた。いや、めまいの原因ははたして大きな声のせいなのか、背中にあたる柔らかくて温かい感触のせいなのか、頭の上から降ってくる静かな声のせいなのか、背中にじかに伝わってくるクシャナの鼓動のせいなのか、なんなのか。なんだこれ。ああ、もう限界だ。
ぼんやりしていた頭がパンクする音を聞いた。
それきり頭の空気が抜けたようにクシャナの身体に背中を預ける。
「・・・もう、寝る」
心頭滅却して強く強く目を閉じた。
襲ったらごめん。
いまは何時だろうか。
まだ暗い時間にユーリは目を覚ました。
もう雨の音がしない。
ユーリは丸太小屋の床に寝転がっていて、体の上にはユーリのシャツとクシャナのローブかけてあった。
完全とはいかないまでも、もうだいぶ乾いている。
バッとローブを持ち上げて確かめたら、下はばっちり着ていた。睡眠欲の勝利である。(敗北か?)
天井近くの明かり取りの窓からちょうど月明かりが差し込んでいる。
視線をめぐらせれば、クシャナが小屋の隅っこに体育座りの格好で眠っているのを見つけた。
身体はまっすぐ座っているが、頭だけは右へ傾いている。
残念なことにすでに服を着ていた。
「・・・」
対面する位置に屈んでユーリも同じ方向に首を傾けてみる。
きれいなひとだ。
クシャナの好きな人は自分でなかった。それが悔しかった。
クシャナが結婚すると言ったのは好きな人とではなかった。それは知らなかった。
クシャナの膝にかろうじてひっかかっていた右手のひらがパタリと床へおりた。
先ほどの森マラソンのせいであちこちに傷ができている。
人差し指には火打ち石をぶつけた痕だ。
華奢で上品だった靴はぼろぼろになり、クシャナの足元に揃えておいてあった。
獣道ではなく絨毯を歩くための靴。
足の爪が割れて血がにじんでいる。
きっと唇に触ったら起きるだろう。
手に触っても起きるだろう。
ローブをかけたって起きるだろう。
だから腕を背中にまわして思いっきり抱きしめた。どうせ起きてしまうならいっそ。
クシャナの息遣いで起きたとわかる。
顔を見ないように抱きしめる。
すき
「何もしない」
すき
「だから、ごめん」
あなたのことがすきだった
「ごめん」
ユーリの背にクシャナの腕がまわることはなく、ただ子供を慰めるように白い手のひらが優しく黒髪を撫ぜた。
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