千葉の閑静な高級住宅街でそんな騒ぎが起こる日の、時刻は朝9時00分までさかのぼる。
ところは天下の険とうたわれる箱根峠のその麓、小田原である。
箱根学園のエースクライマー、山神こと東堂尽八は海に程近い小田原のサイクリングセンターに降臨していた。



「来たか」

海風は熱風で、容赦ない夏の日差しが自転車トラックコースに跳ね返って肌を焼く。
対峙するはハンドルをおさえたまま、こちらへ向かって深く頭をさげた。

「よろしくお願いします」

可憐な見た目に反してハキと言う。まずはよし。

「だが、!」

ビっと指さす。口調も表情も厳しくあたる。

「おまえにこの東堂尽八が教えを授けてやる前に、一つ確かめておかねばならないことがある」

よい姿勢をより緊張させ、はオレの次の言葉を待った。

「おまえは、おまえはっ…巻ちゃんのカノジョか!!」
「彼女ではないです」
「家が隣同士なだけかっ!」
「隣同士なだけです」

「ならばヨシ!」

お盆休みでスッカラカンのサイクリングコースにオレの美声が響き渡り、二人きりの特訓がはじまった。
修善寺のサイクルセンターに比べればごく小さいこの自転車練習トラックコースは、普段は競輪選手の練習や、我が校ハコガクの集団走行トレーニングに利用するなじみの深いコースだ。
夏休み期間の箱根は観光客だらけで外を走るのにも不慣れな人間は難儀する。外に出る前にまずはここでという女子の実力をはからねばならなかった。

入念なストレッチを済ませ、9時30分、ペダルをゆっくりと踏み込んだ。
緊張のせいかやや体は固いが自転車の滑り出しはスムーズだ。
フォーム全体をチェックするために少しの距離をあけてオレはの後ろについた。
パステルイエローのウェアは揃いのスカートまでついて一見するとミニのワンピースのようないでたちだ。スカートの下に膝上までの黒いレーシングパンツがのぞいている。
筋肉はそれほどない、ような気がする。
いや女子だからこんなものなのか。
正直、箱根学園は女子自転車競技部がないうえ草レースでも女子競技人口は少ないから、女子慣れはなはだしいこの東堂尽八様といえどもよくわからない。背中に無駄な肉はついていないようだが、スカートのせいで肝心の下半身がわからない。
サイドにスリットのはいったスカートの裾が風でチラチラとめくれ、お尻が見えそうで見えない。

「…セクシーだ」
「え?」
「いや、なんでもない!気を抜くな、前を見てひたすら回せっ」
「はいっ」

スパルタ教官を演じるが、後ろで顔をおさえた。
ビー・クールだ。東堂尽八、おまえはかわいい女子なんて見慣れてるじゃないか。
インターハイが終わったからといって気を抜くな。約束したのだ。
しっかり見極めると。

この女子に箱根峠を越える力量があるかどうかを。






オレがはじめての存在を知ったのは今年の春、巻ちゃんと電話をしていた時のことだった。
巻ちゃんの手からすっぽ抜け庭に落ちたらしいケータイは、しかし奇跡的に通話状態が続き、巻ちゃんが「」と呼び捨てにする女子がこの世に存在することを知った。名は知れども素性は知れず、巻ちゃんを問いただしたが絶対に口を割ろうとしない。それどころかこの話を少しでもしようとすると電話を無言で切られるようになり、オレは聞き出すのをあきらめていた。
インハイ選抜が近づくと謎の「」の存在などすっかりわすれていたわけだが、五月の終わり頃、部活終わりに新開が突然こんなことを言い出した。

「尽八、さんって知ってる?」

部室の誰も気に留めない、他愛もない会話のなかだった。

?聞かない名だが、オレのファンにいるかもしれんな。多いから」
「きのう総北の主将さんから寿一に電話があったらしくて、さんって子がおまえと連絡とりたいんだって」

「ハッ」

オレは前髪をかき上げる。

「隼人よ、オレは女子のファンを大切にしているが、個別にオレの電話番号とメアドを教えることはできない。なぜなら不公平になるからだ。いつもそう言っているだろう」
「初めて聞いた気がするけど、そうなんだ。寿一、電話番号だめだって」
「そうか」
「いや、ちょっと待て」

オレは手のひらをつきだし、福をとめた。

「なんでトミー2号みたいなあの鉄仮面くんからそんな浮ついた電話がくるんだ?」

そういえばそうだ、と周りの部員たちもひそかに関心をしめしはじめる。

「総北の巻島の彼女からどうしてもと頼まれたそうだ」

空気を読むことを知らない福は、部員の耳が全部こっちに向いているなか、正直に言った。ほかでもない福の言葉だ。疑うべくもない。
が、全体のうち九割九分九厘彼女がいない、いや、正しく言えば自転車が恋人の部員たちは突如として殺気だった。
「尽八が”巻ちゃん”くんに電話かけまくるから、修羅場かな」と軽やかに笑ったのは新開くらいだ。
それ以外は低く隠したこぶしでロッカーを殴り、
3本ローラーの上のケイデンスが上昇する。
天を仰いで、地に伏せて「巻島ツブス」と呪詛を吐く。
顔を覆って10秒の沈黙ののち、オレは絶叫した。

「あの巻ちゃんにカノジョなど、絶対にあるはずがない!!」

「おめェ巻島のことライバルとして尊敬してたんじゃねえのかよ」

荒北が怪訝に眉をひそめる。

「オレと言う者がありながらァ!!」
「そっちかよ!」
「福、トミー、福トミー!教えろ、その巻ちゃんのカ、カノ、カノjoの連絡先を」
「福ちゃん、なんかこいつ目血走ってアブネーから教えんなよ」
「これだ」
「福ちゃん!」
「わかった、覚えた。もう暗記した」
「東堂さんって自転車以外のことだとだいぶめんどくさいですよねー」

その“さん”が巻ちゃんが呼んだ“”であると知ったのは、メールアドレスに名をローマ字表記にしたと思しき文字列が含まれていたからだった。
オレは生まれてはじめて、衝突する目的で女子に電話をかけた。
電話に出た声がかわいかったからといってオレの憤怒はおさまらない。
「刺されるなよー」という声援をうけ部室を飛び出し腰に手を当て仁王立ち、まず

「東堂尽八だ。オレに用とはなに用だっ」

と威圧的に発した。

これに対し“さん”はたいそう緊張した様子で申し訳なさそうに詫びたうえで、極めて折り目ただしく挨拶と自己紹介をした。女子高生が「と申します」なんて言うか普通。とても高校生(だよな?)とは思えないきちんとぶりに、オレは咳をはらい【威圧】に入っていたギアを少し【きちんと】の方向へシフトした。
かの電話では「巻ちゃん」と呼んでいる声をかすかに聞いたが、初対面のオレに気をつかってか「巻島くん」と呼びあらわしていたのは、まあ、なかなかいい読みだ

その電話では、ロードバイクの練習方法を教えてほしいとオレに乞うた。

巻ちゃんには秘密で、総北のメンバーにも秘密で、練習したいのだと言った。
声は真剣そのもので、とても冗談を言っているようには聞こえなかった。だが、オレもインターハイを控える身だ。千葉とでは距離があるし、しかも縁もゆかりもない他人に、なによりオレのライバルの練習を阻害し、精神を乱す恐れのある女子になど教えてやる余裕はない。
きっぱり断ろうとしたオレの耳に届いた言葉がある。

「巻島くんが、ハコガクの東堂くんは日本で一番きれいなフォームで走る選手だと言っていたものですから」

気づいたら指南役を引き受けていた。
まるでイリュージョンだった。



さすがに会って教えるには遠いから5月と6月は一週間分の練習メニューをケータイで渡し、何%達成できたか一週間分の成果報告をケータイで受け取った。
のトライアル結果はどのメニューに対しても目標の60%を下回った。
やる気がないのかとケータイ越しに疑念がわき、すぐに向こうからメールもこなくなるだろうと想像していたが、予想に反して報告は行われ続けた。あの報告が嘘でなければ。

いま目の前でペダルを回す足を見て、60%、たぶんやっていたのだろうと得心がいった。
インハイ直前となる7月~8月最初の三日間までは連絡しないと向こうから申し出、こちらからは6月最終週に反復用の練習メニューを渡しておいた。
インハイが終わって二日経った8月5日、一か月分の結果トータル62%の達成率とともに、直接指導してもらう機会がほしいと連絡を寄越してきた。



手始めにトラックコースを5周まわり、オレは一度ロードバイクを降りた。
オレが止まったことに気付かなかったは+0.5周回ったところでようやくオレがついて来ていないことに気付き、スパートをかけて戻ってきた。
汗をながし、息を切らせ、右ひざに大きな傷跡と小さなあざはいくつもあった。オレの目を見ると、酸素を求めて薄くあけていた口を一文字に閉じて、背筋をのばし平気に見せる。肩と胸はまだひっきりなしに揺れていた。
焼け焦げそうな路面からそれて、木陰に連れていく。

「60点。全然ダメだな」

セミだけが騒ぎたてるなか、緊張の面持ちだったを容赦なく崖から突き落とした。
ロードを背に、追い打ちをかける。

「こんなモノかと正直がっかりしたよ。これで夏の箱根を上ろうなどと、身の程を知るべきだな」
「…」
「おまえがのぼろうとしている国道1号線は知ってのとおり難所といわれている。勾配はきついし、カーブもやたら多い。日光いろは坂あたりだとカーブと次のカーブまでの間に距離があるが、箱根はひっきりなしにカーブが続く。そしてなにより、インハイとは違って道には車があふれている。特に混雑しているのは湯本へ下る車線だが、対向車が来る以上のぼり車線もコーナーでふくらむことができない。その道をロードで登るということはつまり、スピードを出さなければ後ろに車が詰まっていくということだ。煽られて無理やり速度を上げれば息が上がる。標高もある。普段低い土地で練習しているような奴はよけいに息が上がって、思いどおりにいかなくなっていく。だがカーブは容赦なく何度も何度もまたやって来る」

はなにも言わない。
地面を見つめ奥歯を噛んだように見えた。

「なぜペダルを緩める」

どれだけ虚勢を張ろうが意地を張ろうが胸に秘めた志が尊かろうが、いま見た事実の前にはすべて無力だ。ここぞというところでペダルを緩め、流す癖が、あの脚と心にはあった。
それこそが60%の所以だろう。
はまだ口を引き結んだまま何も返さない。否、返せないのだろう。
悔しさでグリップを握る手に力がこめられているのは、グローブから出た関節が白くなっているのを見てわかる。

「オレはサボる足は尊敬できない。平坦なトラックコースも好きではない。熱いし、うちのかわいい後輩たちに指導せにゃあならん立場だ。今頃あいつらは箱根峠どころか天城原峠だって越えている。巻ちゃんの知り合いだからという理由だけでこれ以上練習に付き合ってやる義理はないな」

立ち尽くすに背を向けひとり、ヘルメットをかぶった。
引き止めようと前に出たのチェーンがカラと心細く鳴る音を聞く。

「だが約束は約束だ」

再び音がなくなり、蝉はうるさいのに自転車練習場は静かになった。

「約束どおり、今日と明日は練習をみてやる」

勘違いするなよ、と言い加える。

「もう一度言うが、あんなペースと脚力と体力では、今日と明日どれだけ回したとしても夏の箱根は越えられない。ロードを押して、歩いて峠越えをしたいわけではないならな」

の肩を叩いてすれ違い、灼熱のコースに戻った。

「行くぞ、60%」

動けないでいるに、オレは唇の片端をきゅっとあげて見せる。

「今は無理でもおまえはもっと踏めばもっと進めるようになる。40%も伸びしろが見えているんだからな。次の春にはてっぺんを目指せるかもしれない。そういう楽しい時期にいるおまえがオレにはちょっとうらやましい」

指差しポーズをしなかったのは、これではあんまりカッコよすぎてあの女子がオレに惚れてしまうからだ。
いやもう手遅れか、落としてから上げる今のセリフまわしのカッコよさと先行するオレの美しさにすでにメロメロになってしまっているかもしれない。
目をハートマークにしてオレに追走している姿が目に浮かぶようだった。



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