伸びっぱなしになってぷるぷるしていたひじをはじめ、ライディングフォームをいくらか直した。
ペダリングと重心の指導はあえて無感情に、しかし真摯にだ。今までひとりで練習してきたに、風よけがある時とない時の走り方のコツを伝えつつできるだけ先行し、見栄えの美しいモテる技のすべてをさりげなく披露しながらひたすら回す。
はたびたびオレの美しいスリーピングスプリントを見ていなかったので視線の方向は何度も注意した。
柔軟性のある、かつ無駄のないフォームを維持させたままトラックコースの巡行を続け、途中15分の休憩をはさんで午前中3時間の練習を終えた。

「よし、一旦昼休憩にするぞ」

振り返ると、額をぐいとぬぐい「ありがとうございました」と息を切らして応じたが自分のことで精いっぱいという様子で、ハートマークもメロメロも微塵もない。それどころかむしろ落ち込んでいるように見えた。
疲れているだけ、かな…?と恐る恐る顔を覗き込もうとしたところ、はくるりと方向転換し更衣室のほうへ歩いて行ってしまった。

「あ、ここのシャワー水しかでないから気をつけるのだぞ」

フラフラと更衣室へ吸い込まれていって声が届いたかどうか心配になった。熱中症になっているのではあるまいか。
外の水道での簡単なアイシングも済んだ頃、白い半そでパーカーを着込んだが更衣室から出てきた。脱いで水で洗ったウェアを日当たりのいいコースに並べて干し、過ごしやすい木陰で昼食をいただく。お互い行きがけに買ったコンビニおにぎりだった。



昼になったら誰かひとりくらい来るだろうと思った自転車練習場は相変わらず今日初めて顔をあわせた二人きり、静かなものだった。おにぎりを食べ終わってしまうと余計に静かさが際立つ。

「熱中症か」

は虚をつかれたという表情で首を横に振った。

「どうしてですか」

「さっき、暗く見えたからな。今も」

ああと思い当たったのかは目をあわせないまま苦笑をつくった。体育座りをして焼けるコースの向こうを見つめる。熱せられたトラックコースには陽炎がゆらいでいた。

「この夏の峠越えをしかったので」

冗談めかしてカラカラ笑った声が人のない練習場ではむなしい。滑稽さに気付いては笑うのをやめた。

「でももっと練習したらきっと越えられる」

本に書いてある言葉をそのまま読んだような響きだった。
自分を奮い立たせるための言葉だ、キザだなんだと言う気はない。
と、突然にっこり笑った笑顔が向けられた。

「東堂くん、コーチをしてくれて本当にありがとうございます。今までも」
「かまわんよ。イリュージョンとはいえ、引き受けたのはオレだからな」

イリュージョン、と繰り返しては首をかしげた。

「ところで、さっきから気になっていたんだが、登れる上にトークも切れる、そしてこの美形、天が三物をあたえてしまったこのオレを敬いたい気持ちはよくわかる。しかしその敬語はいい。年、タメだろう」

「…受験生」

「それは言うな!勉強は明日、いや明後日からする!というか受験生は自分だってそうだろう」

「わたしは高2です」

「むっ!?なに、後輩だったか。じゃあ、まあ、敬語でも…」

「ちょっと入院とかがあって一年入学が遅くなってしまったので二年なんですけど、同い年です。…同い年、だ」

「そうなのか」

確かにパーカーからのぞく首も手首も細くて病気のひとつもして似合いそうな容姿だ。
かの電話落下事件で巻ちゃんが「絶対守る」と口走った経緯は知らないが、うしろに隠して守ってやりたいと、そういう気にもなるかもしれない。

「その、病気というのはもういいのか」

「もう平気です、だ」

「普通でいいと言っているだろう」

他愛もないおしゃべりはそこまでで仕舞い、15分だけ地面の上で寝た。
見ればも別の木陰でこちらに背を向ける形で横向きに寝ている。
初めて電話した5月に聞くべきだったことを今また聞く機会を逸した。

(なんで巻ちゃんに教わらないんだ)

オレのファンだから。
自転車をつながりにしてオレと特別親密になろうと画策している。
60%という報告すら現実めかした嘘かもしれない。
そう思えば疑問はなかった。
会ってわかった。
全部はずれだ。







***



昼休憩を終え、午後の練習を再開する頃にはコースに置いていたウェアはすっかり乾いていた。
トラックコースは走りやすいが照り返しが激しい。
さらに太陽が真上にあるときにはコース上に日陰がなくなってしまう。なにより景色の変わらない平坦をぐるぐる走っているだけでは面白くないから、混雑する道をさけてオレたちは公道に出た。
車がガンガン走れるような大きな道を避けると、路肩はガタつき段差も溝もそこらじゅうにある道を行くことになる。は三度転んだがすぐに立て直してついてきた。
その姿に転び慣れるまでの道のりを感じ、練習場のコースにいたときよりもオレはいい気分になった。



14時を過ぎ、気温はピークを迎える。
汗をぬぐうそばから額を次の汗が流れていく。さすがのオレもこの暑さはこたえる。
速度を緩め、左を指した。
休憩のため入ったコンビニの駐車場は混みあっていた。

「東堂さん!?」

「むっ?」

見慣れた練習用ジャージの一団が一斉にこっちを振り返る。箱根学園自転車競技部だ。
どこもかしこも渋滞する夏の箱根で、すいていてかつ自転車で走りやすい道はそう多くない。コース取りが重なるのも思えば必然だった。
群れのなかから汗を拭き拭き泉田が顔を出し、駆け寄ってくる。部活はインハイで区切りとするのがハコガクのならいだ、あれ以来フルで練習に参加したことはない。他の部員も大喜びで寄ってきてあっという間にオレは取り囲まれる。なんたる人望。よせよせ、悪い気はしないがむさくるしい。

「どうしたんですか、あ!もしかして練習見に来てくれたんですか」
「おまえたちこそ今日はぶ」
「新開さんはっ、新開さんも来てくれてるんですか!?」
「隼人は来てない。泉田、先輩をさえぎるな。あとそうあからさまにガッカリするな」

泉田の横で、荒北も居なそうだと察した黒田までガッカリしている。こいつら…。
気を取り直して、オレはふんぞりかえって腕組みした。

「ところでお前たち、今日は部活は盆休みではないのか」
「はい!でも学校に入れないだけなので、寮に残っている連中で自主練してました。途中で真波にも会って合流して、その次は東堂さん!やっぱり同じ穴のむじなですね」
「その言い方はダサくて気に入らないが、いい心がけだ。くれぐれも熱中症には気をつけろよ」

泉田の肩を叩いて励ますと「はい!」と一斉に元気な返事が返った。

「うむ」

「あれ、真波は?」と誰かが言った。そういえば群れの中に合流したという真波の姿が見あたらない。あいつはあのインハイ以来、どこか危うい。

「あ!あんなところにいた。なにやってんだよ真波ぃー」
「だれだ、あの人」

部員が指さした先を振り返ると、真波はのまわりをうろうろと歩き回り無遠慮に足の先から頭の上まで至近距離から観察していた。はビビって真波とオレに交互に視線をやって硬直している。

(誰だろう、か、かわいい)
(ロードだ)
(誰あれっ、美人じゃね?)
(もしかして東堂さんの)
(え、マジで)
(さすが東堂さん、レベル高ぇ)

鍛え上げられた筋肉を急にもじもじさせ、髪型と体臭を気にしだした部員たちは小声で会議を始める。
そんな部員たちを気にもとめず、の正面で顔を覗き込むように体を傾けた真波が

「東堂さんの彼女さんですか?」

と尋ねた。

「いえ、違います」

「え?違うんですかァ?オレは真波山岳、君もロード乗るの?女の子で乗るの珍しいね。どこから来たの?坂は好き?向こうにいい坂があるんだけどよかったら一緒に」

「ままま真波!なにやってるんだ」

殺気立った部員たちに全力でひっぺがされ、真波が男の輪へ後退した。

「あ、あんな近くで、初対面の女性に失礼じゃないかっ、東堂さんでもあるまいし」
「泉田、おまえさっきからちょいちょいオレに失礼だぞ」
「え、やだなあ、オレは単に坂登りたいなって思っただけですよ。委員長以来女の子と登ったことないから楽しいかなーって。あ、しゃべってたら走りたくなってきた。はやく練習再開しませんか」

爽やかに笑う天然を、部員たちはうらめしそうに見るが物を言えない。
暗雲立ち込める部員たちの輪からひとまず離れた。

「驚かせたな。うちの部活の後輩連中だ」
「大勢いるのね」
「これでもまだ一部だ。実際には50人以上いる」
「そんなに…。あの、はじめまして、千葉から来たと申します。高2です。今日は優秀な先輩をお借りしてしまってすみません。東堂くんにロードバイクの練習をみてもらっています」

が一歩出て律儀に挨拶をすると、みんな顔がこわばり、笑っているんだか照れているんだかわからない不気味な表情で直立不動になった。お前が行けよ、そういうお前がなにか返事しろよと裏で小突きあうのをすり抜けて真波が再び顔を出す。

「へー、あの修羅場の”さん”ってこの人だったんですかァ」
「シュラバ?」
「泉田、こいつを黙らせろ」
「アブッ!!」

真波をしめおとし、女子の存在にそわそわと落ち着きをなくした集団は慌ただしく休憩を終え、道に帰って行った。
あっという間に遠ざかったその速度と迫力に思うところがあったらしい。休憩中だまって考え事をしていたは、練習を再開すると「わたしは遅いですか」と後ろから尋ねてきた。

「なに、やつらが速いんだ」

は不服だろうが、オレは悪い気がしないから笑う。

「オレの後輩たちだからな」



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