気温35度
体感ではもっとずっと熱い。

ためしに、国道でもなんでもない坂のさわりに導くと、みるみるうちに速度が落ちた。

上から降りかかってくるような木々にさえぎられ陽ざしの厳しさはわずか遠ざかるが、ダンシングとは決して言えない立ちこぎのは下を向き、きつそうに顔をゆがめて大腿の筋肉を震わせる。
日焼け止めなんて噴き出す汗でとっくに流れ落ちているだろう。
速度は落ちていくのに意地でも足をつこうとしないせいで前輪がぶれる。
ブレを吸収しようと体を傾けるが走り続けた疲れが体の軸ごと不安定にしていく。
郵便屋のバイクがオレたちのことを不思議そうに見ながらくだって行った。

「戻るぞ」

坂の半ばで引き返した。
は返事もできないほど息を詰め、オレを見ないようにしてまだ登ろうとしている。
体にピタリと張り付く形状のウェアだから、小刻みに上下する胸の動きがはっきりと読み取れる。こいつは中学もいまも、運動部ではないのだろうと想像した。

「練習場で登り方を教えてやるから」






夕方が近づき、宿と土産物屋が立ち並ぶ箱根湯本方面へ向かう車で渋滞する国道を横目に小田原海浜の自転車練習場まで戻ってきた。
15分の休憩の間、は無人のコースに横向きになって寝転がっていた。
汗でベタベタになったジャージの背が横になった今もまだひっきりなしに上下している。海からのなまぬるい風が頬をねっとり撫でたのも、木々が揺れる音もふと不気味に感じてのところへ歩み寄る。
足音に気付いたはゆっくり体をひねり、顔を見せて笑った。

「まだ、地面が、熱い、から」

東堂くんはここで寝ないほうがいいよ、と途切れ途切れに言った。

「…大丈夫か」

熱いといった地面に頬をつけたまま、全然平気とはうなずいて笑った。

「こんなに汗をかいたのは、生まれて初めて」

そう、嬉しそうにも言った。






休憩時間を終えるとはしっかり立ち上がってきたので、予定どおり登坂の2種類の基本フォームを伝授した。
本で勉強したという登りのシッティングもダンシングも、の場合一部のパーツだけできていて、全身と道と連動していないからチグハグだ。このフォームで三か月近く公道で練習していたのかと思うと居たたまれない気持ちになった。本当にひとりきりで練習していたのだろう。
練習場に坂らしい坂はないが、コースの中心から外側へ向かって、なめらかな傾斜をえがいている。それを利用し、アップダウンを細かく繰り返した。
の表情にも明らかに疲れが見えているが、えいやでついてくる。長持ちする走りではない。

「そうだ、いい感じになってきたぞ」

返った返事も渾身の力を振りしぼっているという感がある。

「…巻ちゃんはこう、ぐにゃぐにゃ走るが、真似するなよ。あれはコケる」
「巻ちゃんが?」

お、ちょっと持ち直した。
疲れのせいか、巻島くん、と呼んでオレにヘンな気をつかうのを忘れている。
たたみかけるなら今だ。

「なんだなんだ、幼馴染のくせに見たことがないのか」
「見に行きたいと言うと、とても嫌がるから」
「ならば見せてやろう。オレとは正反対、こうだ!」

車体を大きく横に揺さぶってついでにケツを振る。
が「笑わせないで」と後ろで苦しそうな笑い声をあげた。サービス精神旺盛なオレは、友をネタに友の友の疲労をひととき忘れさせる。

「変だろう!」
「へんっ」
「だが速い!」

車体とお尻を振り振り速度を一気に上げてを突き放した。
平坦に戻ってフォームも戻し、まっすぐに走る。
はペダルを緩めて半周離れたコースの対岸からオレの走りを笑顔の余韻をのこして見つめていた。
見とれているわけではないだろう
疲れているのだ。
サイクルコンピュータによればここまで120キロ走行している。
休憩と補給はこまめにやったしそれほどきついメニューではなかったと思ったが、千葉くんだりから自転車かついで小田原まで、一体何時に起きたのか。朝9時30分から日が傾くまで走り、しかも相手は女子だ。やりすぎたのか。加減がわからない。
いずれにしても、そろそろ締めて道が暗くなる前に帰そう。

周回遅れのに追いついたとき、惰性の速度で小田原の夕焼け空を見上げていたは前を見てペダルをゆっくり回し始めた。並ぶ。

「これで、ラスト一周だ」
「…ここは何時までですか」
「うん?夜9時までだが」
「じゃあ、もう少し」
「いや、待て。暗くなると上のライトをつけてもらわねばならない。ライトは一回で8000円する。使うのは大学生や社会人の人だけでだな」
「暗くなるまで」
「いいや、ラスト一周だ。今日どれだけやったって峠は登れないと言っただろう」
「…」

速度をあげようとしたの前に出て阻み、じりじりとトラックコースの内側へ押しやりながら並走する。
その表情は疲れて笑顔もないのに目だけまだ光を持っていて、頑なに前を見、オレを無視しにかかっている。子供の意地だ。
ラスト一周だと言ったのに、はペダルを止めなかった。
まただ。
普通に話すときには見事に鳴りをひそめるのに、時折こうして危うい灯が目に宿る。
空は夜の色を含みはじめた。

「…なんで箱根峠なんだ」

意地っ張りから答えは返らない。
並走のままもう半周を過ぎた。
自転車練習場の外壁から内側へ向かってゆるく湾曲した短い屋根が、トラックコースの外側を影におさめた。
道が狭まったように感じる。

「イギリス、に」

拾えるか拾えないかの声でこぼれ落ちたその言葉に、よく知る玉虫色の頭が思い浮かんだ。
やっぱりあいつのせいかと、そう思った。

「ああ。インハイの少しあと、電話で聞いたよ」
「わたしはインターハイの次の日におばさまから、裕介は八月で出て行くのよって」

ペダルを踏み込んでいるのに、不思議と息をしていないように声から乱れが消えた。

「絶対無理だって周りが言うことをできるようになって、無理だって言った人たちを見返すの」
「美しくない理由だな」
「みんなに無理じゃないって伝えるのに、これが一番わかりやすい」
「無理だと言ったのは巻ちゃんだろう」
「…」
「ロードバイクも道も、あいつは一番よく知ってる。オレの次にな。それゆえの言葉だ」
「巻ちゃんだけじゃない」

かいた汗がひっきりなしに落ちていく。

「お父さんもお母さんもおばあちゃんも学校の友達もお医者さんも東堂君もみんな…」

グリップを握る手に力がこもる。

「無理じゃない」

夜が迫る。

「巻ちゃんが卒業する春までに同じ道を越えてみせるって思って」

は笑うような口をした。

「なんで、8月」

声はくやしそうに震えていた。
医者に無理だといわれていることをバラしたのは無意識か同情を得たかったのかヤケクソかわからない。
学年ごとチギられた奴が全然平気と笑ったときの気持ちもわからない。

またおいて行かれる

そう聞こえた気がしたが、オレには聞こえなかった。
同時に水がバタバタと落ちた。
汗だ、これは。

「すこし、並ばないで」
「先に行く」

平坦なんてちっともおもしろくない。



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